連載第2回 川島副会長

 

 

昭和35年春 「広場の孤独」公演。左側、立って叫んでいるのが川島さん

 

昭和36年 劇研部室前

 

~私の稲門時代~ <昭和30年代中半> 
    
昭和34年、第一商学部に入学。商学部は就職率が100%近いという触れ込みがあり、進学を渋っていた親にも安心してもらえるとふんだのが誤算だった。
簿記、会計学は苦手、大教室での講義にも失望し、入学一カ月で挫折を味わった。
おまけに第二外国語で選択したドイツ語の講師が、「やはり東大に比べて早稲田は出来が悪い」と言われカチンときて授業放棄。
東京出身のクラスメートが「お前の田舎はどこだい?」といちいち聞いてくる。
「俺の出身は京都の祇園や。田舎じゃない」と返すとスゴスゴ引き下がった。
 早稲田に入ったからには勉強よりサークル活動が大事と勝手に決めこんで選んだのが「早稲田大学演劇研究会」通称「劇研」。高校時代の親友の兄が在籍していたことも選んだ理由だった。
 昭和34年の春の公演は、アーサー・ミラーの「るつぼ」という作品で、すでに稽古が始まっていた。
 稽古していたのは、のちにNHKの副会長になる永井多恵子さんとその相手役だったが、セリフ回しが気になってダメ出しの最中に自分の感想を喋った。
 新人の分際で生意気とお叱りを受け翌日から稽古場への出入り禁止。劇研からも足が遠のく。
 最初に下宿したのは、目黒区柿ノ木坂。貧乏学生なので出来るだけ安い条件を探し行きついたのが掘っ立て小屋風の三畳半の部屋で賄いが付いて五千五百円だった。
 そこからバスで恵比寿へ出て山手線で高田馬場へ。スクールバスを使う往復で45円、お金がないときは馬場から往復歩いた。
 家からの送金は五千円。下宿屋のおばさんが家庭教師を世話してくれた。
 アルバイトはいろいろやったが、いちばんキツかったのは深夜の製本現場でまさに肉体労働だった。
 二年生のときに巻き込まれたのが安保闘争だ。それほど政治意識が高くなくてもデモに参加しない奴は人でなしのように思われた。
 6月15日、劇研の仲間と国会へ押しかけ機動隊と正面衝突、警棒が襲ってくるのを逃れて地下鉄の駅へ避難した。この日、樺美智子さんが圧死し、劇研仲間の何人かも負傷する。
 安保闘争の敗北による虚脱感で何も手につかなかった私に劇研からオファーがきた。
 三年ぶりに行う夏期移動公演つまりドサ回りで主役をやれと言う。
 ブラジルの劇作家の「狐とぶどう」という政治諷刺劇であのイソップが主役になっている。二時間近くほとんど出ずっぱりで体力のいる役だった。私が選ばれたのは声が大きいという理由だった。地方へ行けば劣悪な劇場や講堂もある。科白が聞こえるのが最低条件だ。
 京都を皮切りに福知山、徳島、新居浜、広島で公演し、楽日が名古屋。8月の酷暑のなか、冷房のない劇場も多く宿泊先は学生寮。
 名古屋の公演は疲労が限界に達し、幕が下りてからその場にへたばった。60キロあった体重も55キロになり無意識のダイエットだと自嘲する。
 「狐とぶどう」はそれなりに好評で秋には早稲田祭で大隈講堂での公演もこなし大宮高校や川越女子高にも出前した。
 三年の秋ごろから日本テレビでADのバイトが転がり込んできた。
 「ワンダフルクイズ」という番組では、早慶六連戦で活躍し、国鉄スワローズに入団が決まった徳武定之選手を戸塚の寮まで迎えにいったこともある。別のバラエティ番組ではペナントレース終盤の頃に桜上水にあった長嶋茂雄さんを迎えにいき、ハイヤーの車中で初めて会話を交わした。その後長嶋さんとは何度も番組で顔を合わせることになる。
 就職のシーズンが近づいてきたが、優の数が20以上ないと一流企業には推薦してもらえない。マスコミ各社もすべて落ちた挙句さる広告代理店にもぐり込んだ。
 「鉄腕アトム」関連商品のCMなど作ったが一年そこそこで退社。そこからは新劇の劇団、アメリカ留学、ニューヨークのレストランのマネージャーなどの遍歴を重ね、30歳で漸くテレビの構成作家として生活の糧を得ることができた。
 卒業以来、早稲田という意識はほとんど消えかかっていたが、70歳を過ぎ志木稲門会に入会してから改めて自分は早稲田マンだったと思い知ることが多くなった。私みたいな変則人間でも受け入れてくれるのが志木稲門会です。
 附記 授業に満足に出ず優の数が極端に少ないのは仕方ないが、劇研には女子が大勢いたのに嬉しい仲になれなかったのは、慚愧に絶えません。

                     

 昭和36年6月 劇研のメンバーほぼ全員。この後、国会へデモ。                                                      川島常稔(昭和34年入学)