第1回 一ノ倉会長

~私の稲門時代~ <昭和30年代前半>               
 昭和20年に第2次世界戦争が終わり、敗戦で物が何にも無い時代から、朝鮮戦争を経て、やっと経済が活気を取り戻し始めた頃の昭和30年に高校を卒業し、1年浪人をして、翌年、昭和31年4月に早稲田大学第一政治経済学部経済学科に入学、昭和35年3月に卒業して、貿易商社に入社、現在まで歩んできました。
 今、考えると、親は安月給のしがない会社員、兄弟姉妹5人、家族7人の中で、よくも金の掛かる私立中学、高校に行き、浪人迄して私立大学に入ったものだと、親の細い脛をしゃぶってデカイ面をして生きてきた親不孝者と、今は亡き両親に申し訳無かったと、頭を下げる他、ありません。       
昭和30年頃の、早稲田界隈は、学生帽や学生服を売る店、古本屋、麻雀屋、食堂、喫茶店、下宿屋などで活気があり、貧乏ながら、皆、生き生きとして、戦後民主主義を謳歌していたと思います。入学式、早慶戦には、学帽をかぶるのが普通でした。早慶戦は、ご存知の「ふくちゃん」でした。       
当時の第一政経学部は、政治、経済、新聞、自治行政の四学科があり、第2外国語の選択でクラスが分かれていました。総長は大浜信泉先生、学部長は吉村正先生で、語学の授業以外は、大体、代返の利く大きい部屋だったと思います。授業を受けに行くと偶々「休講」、先生が居られる時は、こちらが「休講」で、雀荘に行ったり、喫茶店で駄弁ったり、煙草の煙モクモクでした。
 ほぼ四年間、中小企業の経営者の子供たちの家庭教師のアルバイトをやり、中学・高校時代の友達も含めての仲間との野球・テニス・スキーその他の付き合い、7月下旬から8月上旬を中心にした北アルプス主力の夏山登山、春休みや夏休みの九州一周、北海道一周などの無計画弥次喜多旅行などで、結構楽しく過ごしました。
 登山は、北アルプスを、信濃大町から針ノ木峠、五色、立山、剣岳、地獄谷経由、富山へと縦走もしたし、大町から烏帽子・三俣蓮華・槍ヶ岳・燕などを歩いたり、槍ヶ岳・穂高はよく登りました。新宿から夜行の中央線だったか。就職活動は未だ自由だった時代で、4年の夏休みを北海道一周の旅をして、帰京したら、周りの連中が、あそこに受かったとか、どこそこに入社が決まったとか云うので、慌てて幾つか受け、大学の就職課で勧められて、その後五十何年か務めることになった貿易商社に入社する形になりました。
ここでも、親に心配させることになりましたが、お蔭様で社内結婚もしました。昭和35年当時、初任給は平均¥15,000位で、高い所で¥17,000~18,000位だったか。私の場合は、初任給¥1,200、物価手当¥12,000、合計¥13,200という形で、第2次世界戦争の戦後の超インフレ時代の名残が残る最後の時代でした。                   

         一ノ倉 達也(昭和11年生まれ、昭和31年入学)