会員投稿


成28年4月12日(火)~15日(金)金峯山寺・葛城古道・室生古道を踏査
~ソムリエの会・田中昌弘さんと友人西澤光氏と歩く奈良古道紀行~

                               梅木秀喜
      
今回の紀行は奈良金峯山寺を歩きたいと思ったのが始まりでした。奈良大学で知り合った馬淵さんが吉野山の金峯山寺はすごかった、蔵王権現立像の迫力は古代史を勉強する者なら当然見て置くべきとの言葉が決め手でした。合わせて4月(4月1日~5月8日)は秘仏本尊の金剛蔵王大権現三体が特別御開帳されるとの事。1年のうちこの期間しか「拝めない」との事で2月から準備に入ったのでした。当初怖がりの私ですが夜間拝観をしようと試みました。しかしこの間山のお宿はどこもお一人様お断りで断念しました。4月12日に訪れて見てその理由がよく分かりました。山全体がすごい人出で、いくらでも泊まりたい人はいるのだと分かりました。一人で一部屋より、二人以上で一部屋の方が、効率がいいのは当然でした。でもちょっぴり残念でした。夜の怖い?青鬼を見て見たかった。
もう一つは天皇家とも関わりが深く、氏族十八氏の中の葛城氏(かつらぎし)は一体全体どういう存在の氏族だったのか、はたまた途中から名前が出なくなったがその理由はなんだったのだろうかと疑問に思っていたのです。そんな中、葛城古道の存在を知り、更にまた女人高野で有名な室生寺が近くにあり、その歴史と金堂の国宝・諸仏を勉強したばかりだったのです。これは是非昨年ガイドして頂いたソムリエの会の田中さんに葛城古道と室生古道は案内して欲しいと連絡を取って今回の計画が動き出したのです。
折角ソムリエ田中さんに案内して頂くのに私一人ではもったいないと思い、大学時代からの親友西澤氏に声を掛けたのでした。どうしようかと迷っていたようですが、私が購読している週刊日本の名寺をゆく「仏教新発見」で蔵王権現の形相のすさまじさを伝えたところ、一緒に行くよとなったのです。「梅木と3泊4日の旅に出るなど人生の中で最後かも知れない」と65歳の我々にはちょっと早い大層な理屈をつけて私の誘いに乗ってくれました。私は私でこれだけの山と古道を彼に見せておきたい、奈良の良さを伝えたいとの強い思いがあったのも確かです。さあ、いよいよ出立です。

●初日(4月12日(火))金峯山寺と三輪の常宿へ:空は晴れ渡り気持ちのいい朝です。東京駅7:40発のぞみ10号で京都まで乗る為、西澤光氏(以下 光(こう))と丸の内中央口で待ち合わせとしました。二人とも7時には到着していて、かなり待ち時間があります。この間に朝食用のおにぎりとお茶を買いこみました。おだやかにと感じる程穏やかに新幹線はすべり出しました。私は着替え等は宿の方に送っていて、軽々のザックでしたが、光は見るからにりっぱな?機能性抜群のザックに3泊4日分の荷物を背負っていました。まだまだ十分に入るよと自慢げです。2時間18分の乗車時間ですが、話をしていると時間は早く進むようです。途中今回もお世話になるソムリエの田中さんから携帯に連絡が入って来ました。「自分は今橿原神宮近くの万葉文化館にいます。ここで案内をしています、中々いい所です。時間が合えば、こちらも案内しますよ」との連絡でした。我々は京都から、近鉄特急で橿原神宮駅経由吉野(金峯山寺所在地)へ行く予定でした。吉野へは昼前に着く予定であり、タクシーで行けば、万葉の歌にも触れる事が出来てこれはいいと甘い考えが浮かびました。尚、橿原神宮から吉野までは特急で約45分の予定です。その橿原神宮駅には予定通り、11時3分に到着しました。ただ、乗ろうと思っていた11時10分発の特急は満席で乗れません。その後の特急も満杯との事。普通では倍の時間がかかります。あとあとの事を考えると次の普通列車に乗るしかありません。やむなく万葉文化館は今回あきらめました。

◆金峯山寺・蔵王堂の秘仏・蔵王権現立像


本地(ほんじ)は左から弥勒菩薩・釈迦如来・千手観音 と 釈迦如来(一番大きい)
像高は左から、5.92m ・7.28m ・6.15m あります。
但し、上記権現立像は秘仏であり、重要文化財の為直接写真に撮る事は出来ません。これは週刊仏教新発見のビジュアルを接写したものです。(でもこれがあってよかったです)

・吉野の金峯山(きんぷせん)はその昔、はるか昔の7世紀後半、役行者(えんのぎょうじゃ)=役小角(えんのおづぬ)が修験道を始めた地です。吉野と言えば桜ですが、役行者は人々を迷いや苦しみから救う為、その山桜に神の化身を彫り、お堂を建てお祀りしたとされます。このお堂が蔵王堂となり金峯山寺となって行くのです。金峯山寺は修験道を信仰する山伏の総本山となっています。

 

―花法会(ほうえ)の為山伏が来ていました― ―国宝・蔵王堂、手前は基壇跡か―
この蔵王堂にある、本尊蔵王権現立像をいよいよ間近で見る事が出来るのです。緊張とわくわく感が襲って来ます。国宝仁王門修理勧進の為、2012年から10年間・4月から5月の一定期間特別ご開帳しているのです。薄暗い中、目の前で見ると、三体の大きさといい、彩色といいその迫力は人を圧倒します。私も相当仏像好きですが、見とれてしまいました。但し、一人で見ていなさいとなったら、怖くて逃げだしたことでしょう。仏像で見とれたのは二度目です。興福寺の阿修羅像は、憂いがあって、悲しみがあり、かわいくて見とれました。全く逆ですが、権現立像には毅然とした、決して曲げる事のない決意がにじみ出ています。私は鎮座する三体の前で、左から右、中央と何度も位置を変え、絶対に忘れないぞと決意しながら見入りました。光の方は、堂の通路を並び、一人か二人でしか入れない、障子のある、特別な間仕切り部屋へ通されていました。きっと深い祈りをささげた事でしょう。寺社仏閣が好きな方なら、是非一度拝観される事を心よりお勧めします。
本尊蔵王権現立像は忿怒の形相をしていますが、これは悪魔を調伏するための仮の姿です。権現とは仏様が仮の姿で現れた事を意味しています。本地(ほんじ=ほんとうの姿)は左から弥勒菩薩・釈迦如来・千手観音で、過去・現在・未来に渡って私たち人間を救う為にこの世に現われた姿なのです。自然と手を合わせ、頭を下げてしまいます。しかし、私は目に焼き付ける為に、一時睨みつけるように、凝視していました。
   
―吉野駅から混雑したロープウエイで、重文黒門前の光氏と 勧進受付中の国宝仁王門― 
―中千本は人が一杯、「一目千本」と言われる桜の名所、 後醍醐天皇ゆかりの吉水神社―

金峯山寺は一年の中で桜よし、御開帳よしで、相当に混雑していました。地元の高校生達が模造紙に書き込んだ観光案内で熱心に説明してくれました。おかげで、大海人皇子の吉野入り(671年)や、後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた(1336年)事や、秀吉が吉野山で花見の宴を催した(1594年)事など多くの歴史を知る事が出来ました。天気も大変良くて本日も恵まれた一日でした。名残を惜しんで下山しました。青鬼よ、さようなら。
◆三輪の常宿・ゲストハウス三輪へ:吉野から橿原神宮経由で三輪駅にたどり着いたのは夕刻5時30分でした。何度も来ている感じで、懐かしの三輪です(昨年6月2泊しています)。昨年とまったく変わらない少しさびれた風情のある駅前です。おかみさんにもご主人にも暖かく迎えていただきました。早速持参していた、昨年の「山の辺の道紀行文」を手渡し、写っている写真に喜んでもらいました。まだ明るい内にと早速光を大神神社へ案内する事としました。大神神社(おおみわじんじゃ)は日本で最古の神社と考えられ、この地が大和王権発祥の地ではないかと私は思っています。ご神体は三輪山です。


大鳥居(S59年建立)、木々の繁る参道と光氏、一の鳥居・夏至に三輪山から日が昇る
ご神体三輪山には大物主大神が祀られ、禁足の掟により、一木一草持ち去る事を許されていません。1,600年の間守られて来ました。夕闇せまる境内には誰一人姿が見えず、厳かな雰囲気は何とも言えませんでした。光は「中々いい。ここだけでも来たかいがあった」といいます。(たしか、金峯山寺蔵王権現立像を見た時も言っていました)(いい事です)

~三輪ゲストハウスでは翌日も含め色んなエピソードがありました~
「子どもが居る居酒屋」
◆大神神社から戻ると急ぎ風呂に入り、今日一日の汗を流しました。檜造りの風呂は、一人で入るには十分な大きさで、大きく足を伸ばす事が出来ました。
実は今回の旅でもう一つ行って見たいところがあったのです。昨年書いた「山の辺の道」紀行文に登場する「鳥敏の三軒隣」と言うおばんざいのお店です。そこには「チーちゃん」と言う小学校低学年の女の子がいるのです。店のおかみさんの娘です。昨年の山の辺の道紀行文を読んでくれた「チーちゃん」ファンから、チーちゃんはまだいるのか見て来て欲しいとの要望も寄せられていました。昨年のチーちゃんの様子は、『一人のお客様にカウンターで勉強を教わっていました。次にこれまた常連のお客様二人の間に入って、おしゃべりです。次に私の所へ来て、「私の名前は千尋言うねんけど、チーちゃんでいいよ」といいます。一旦奥に設えてあるベッドに戻ったかと思うと、黙って私の所へ戻って来て、黙って私の出っ張ったお腹を撫でるではありませんか。いかに私のお腹が出ているか思い知らされた瞬間でした』。そして今年もいました。小学3年生になっていました。しかし今回はお客様の横で泣きじゃくっています。ノートを見ながら出来ない、出来ないと泣いているのです。隣のおじさんが、教えてやるから、教えてやるからと言うのですが、分からない、分からないと泣くのです。後から来たお父さん風のお兄さんに連れ出されてしまいました。声をかけるチャンスがありませんでした。でも勉強好きな事はよく分かりました。勉強していたのは苦手な算数だったのでしょうか。小さい時の自分と重なりました。

「さすが地元!古代史村のおじさん」
◆チーちゃんが出て行くと、「教えてやるよ」と言っていたおじさんと仲良くなりました。
箸墓古墳と卑弥呼の話しで盛り上がります。名前は島岡さんと言い、年齢は68歳との事。整った顔立ちで理性を感じさせます。住まいは箸墓とホケノ山古墳の中間あたりで、農業を営んでいるとの事。家の周りを掘ると埴輪とか鏃(やじり)とか、とにかく色々出てくるよとの事。えー見て見たいと思わせる話しぶりです。でも、すぐ埋め戻すよとのことです。なまじっか届けたりすると難しい問題もあるようです。「遺跡がザックザク」出て来ると言う話には驚かされました。尚、島岡さんが桜井市(三輪も桜井市)のゆるキャラは「卑弥呼ですよ」と教えてくれましたが、私は知りませんでした。市長と知り合いだと言う島岡さんに、東京・埼玉は古代史ファン・卑弥呼ファンがごまんといるんだから。古代史講演会はじじばばで溢れているよ。もっと宣伝するようにと私の力も入りました。店のママもしきりに古代の話しに乗って来ます。うれしい限りです。我々は歓迎されたようです。

「神がかったおじさんと出会う」
◆宿に戻ると、名古屋から来たと言う60歳の男性と居間で一緒になりました。お互い多少飲んでいましたが、更に缶ビールを開けて、話し込みます。光と私の顔を見比べて、光の方が断然若いと言います(確かに見かけは光の方が若いです、髪が黒い)。話していると、「自分には神の声が聞こえる。三輪に来たのも、神に命じられたからだ」との事。三年前に初めて神の声を聴いた。その時は出雲大社に行けと命じられた。その後もたびたび命じられて神社を回っているとの事。人の悩みごともて取れるなどと言い出します。いやはや世の中には色んな人がいると改めて思い知りました。神の声が直接聞こえるなどと言う人と会ったのは初めてです。見た目は普通のおじさんでしたが。いやはやです。

~本日の歩数と歩いた距離 14,574歩、8.7kmでした~

            連載2回目

二日目(4月13日(水))葛城古道を歩く:いつもの癖で早く起きた私は、大神神社を散策しました。雨の予報もありましたが、日も差していて気持ちの良い朝でした。
ソムリエの田中さんとは8時20分大神神社大鳥居前で待ち合わせていました。三輪まで迎えに来ていただいたのです。1年ぶりではありましたが、本当に懐かしさを感じました。少しやせて見えましたが、まったく元気とのことです。車で約1時間葛城古道の出発点近鉄御所(ごぜ)駅へと向かいます。御所駅近くの駐車場に車を止めると、バスで「風の森神社下」まで行き、古道約11kを歩いて、御所駅へ戻ってくるルートとなります。

朝、大神神社から大鳥居が遠くに 

いよいよ歩き始めです

◆風の森神社⇒鴨神遺跡⇒高鴨神社へ:一年の思いが実って今又歴史の道を歩く事が出来るのは何と嬉しい事でしょう。わくわくする第一歩でした。しかし風の森バス停からはすぐに急坂です。登り切った所が峠で、風の通り道なのがよく分かります。ほんの少し高くなった所に「祠(ほこら)」があります。ここが「風の森神社」です。祭神は「志那津比古(しなつひこ)」で風の神様です。伊邪那岐(いざなき)と伊邪那美(いざなみ)の生んだ子供です。風の森峠に鎮座する風の神様、よく出来ているなあ、その通りの神様です。
しかし祀ったのは風だけでしょうか、何か他にも意味があったはずだと思いました。
⇒神社から少し歩くと、田んぼが出て来ました。普通の田んぼです。でも小さい杭が目印のように2ヶ所ばかり見えました。実は平成5年に発掘調査が行われ埋め戻した後の田んぼです。「鴨神遺跡」(かもがみいせき)と言われています。葛城氏の工房があった処で、金属加工を行っていたようです。葛城氏の経済的基盤を支えていたのです。葛城氏は稲作農業と金属加工で力を蓄えていたのです。その力はどこから来たのか、鴨氏との関係はどうなっていたのか探って行きたいと思います。
⇒葛城の地には多数の鴨神が祀られています。その発祥の神社が「高鴨神社」(たかかもじんじゃ)です。京都の上賀茂神社や下鴨神社で有名な賀茂神社の総本社なのです。そもそも鴨氏一族の発祥の地であり、氏神なのです。鴨氏は田の神を祀っていたのです。弥生時代の比較的早い時期にこの地に移り住み、稲作を営んでいたのです。そこに西の大阪方面から葛城山・金剛山を越え来て、葛城の地を本拠としたのが古代の有力豪族・葛城氏(かつらぎし)なのです。金属加工術や稲作で財力を蓄え、鴨氏を取り込みヤマト王権創世期(三輪王権)には最も力を持っていた豪族です。日本最古の豪族と言えます。葛城氏はたまたま葛城山麓に処を構えたため地名から葛城氏と言われるようになります。

―高鴨神社鳥居前・二人とも若いですよ?ー

※尚、高鴨神社の石垣の中に「地蔵」が刻まれている石があるとの事で三人で探しましたが見っける事が出来ませんでした。そうした中、4月14日(木)に熊本地震があり、熊本城の石垣も崩れ落ちました。崩れ落ちた石の中に「観音菩薩」を彫った石が見つかったのです。蓮の花の上に座る観音様です。身体半分が刻まれた石でした。偶然見つけたのは加藤神社の神主さんでした。偶然とは思えない奇跡を感じました。もう半分も見つかればいいのですが。千年前も四百年前も人の願いはきっと一緒なのでしょう。

●高天彦神社(たかまひこじんじゃ)と橋本院:高天彦神社は高い所にありました。それはそれはきつい登りでした。75歳の田中さんと65歳の二人には身に染みるきつさのはずです。ソムリエガイドの田中さんはわざわざきついルートを選んでくれたのです。この道を行かないとご利益が薄いと言います。田中さんに押されて、どう言うわけか植物園が右手にあり、そこを見ながらたどり着いた所が高天彦神社でした。
   
―どう言うわけか高い所で作業中でした―  ―ここからの登りがきついのです―
高天彦神社は高御産巣日(たかみむすび)神をご祭神としています。神社のすぐ後ろは崖になっていて、金剛山白雲嶽です。この白雲嶽が御神体です。(大神神社の御神体・三輪山と似ていますね)。葛城山、金剛山一帯を支配した葛城氏が神祀りを行った神社です。高天彦神社と言えば、この高台の地を神話の「高天原」とする信仰が古くからあります。


⇒橋本院は高天彦神社から歩いて10分の所にあり、昼食を予定しています。その昔、東大寺大仏殿の建立に深く携わった「行基」が十一面観音に修行の中で出会い、精舎を建てたと言われるお寺です。花に囲まれた静かな佇まいは、訪れる人をほっとさせます。ご本尊は「十一面観世音立像」で、その高さは5.4mもあります。同じ奈良の長谷寺にある十一面観世音立像と同じく右手に錫杖を持っています(所謂長谷式です)。ただ観音堂の扉は閉まったままで間近に見る事はできませんが、隙間から目を凝らして、覗き見しました。金色が目立った観音様をかろうじて見る事が出来ました。花がきれいな静かなお寺です。
   
―白い塀と歩きたくなる道、観音堂は閉まっていましたが、花と鐘撞き堂前で昼食―
鐘撞き堂の前で昼食を取っていると、青森三戸から来たと言う初老のご夫婦と出会いました。奈良は今日で4日目との事。車ではなく、よくここまで登ってこられたと感心しきりでした。光も青森弘前の出身で、他に誰もいない所で会えるとはと感心していました。

◆極楽寺へ:ふくれたお腹を抱え、てくてく行くと極楽寺が見えて来ました。寺伝では用明天皇と聖徳太子が建立したと伝えられています。境内は静かで誰もいません。本堂はありますが、閉まったままです。本尊は阿弥陀如来坐像で重要文化財とあり、本堂に鎮座していたものと思われます。ただ、さすがだなと感じたのは、山門である「鐘楼門」です。昨年の「山の辺の道紀行」で訪れた崇神天皇陵近くの長岳寺(ちょうがくじ)の鐘楼門を思い出しました。日本最古の鐘楼門(重文)と言われています。それより少し小さく感じましたが、その趣は人を引き付けるものがありました。門全体の形がいいと思いました。


◆ヒビキ遺跡と南郷遺跡群と葛城氏:極楽寺を出てすぐ下に見えるのは竹林と田んぼですが、実は当地の王葛城氏が政治を掌(つかさどった)った大型建物跡(居館か)が2005年見つかったとソムリエの田中さんが言います。建物が焼けた痕の焼土も見つかったと言います。更にヒビキ遺跡より北東400mのところにはより大型の掘立柱遺構があり、南郷安田遺跡(南郷遺跡群)があるとの事。今はやはり埋め戻されてただの田んぼですが、「葛城高宮」と言われた葛城氏の居館跡(4世紀末~5世紀)であると考えられます。埋め戻されて今は何も見る事が出来ませんが、私は今回の旅の大きな目的の一つを果たしたような気がしました。葛城氏の存在を感じ取る事が出来たのです。
      
―竹林と田んぼのヒビキ遺跡―    ―眼下には奈良市街が、南郷安田遺跡辺りかー
◆葛城氏は日本最古の豪族と言われながら、やがて葛城氏の名は消えて行きます。そこに何があったのか私には十分には分かりませんが、ほんの少し、分かった気がしています。
⇒葛城氏はいつの頃から(3世紀頃)か、葛城山麓に現われ、鴨氏を取り込みながら勢力を増して行きます。葛城氏は4世紀後半から6世紀前半まで大豪族として勢力を保ちます。
日本書記・神功皇后条に葛城襲津彦(せつひこ)の名が登場し、382年新羅征討に派遣されたとあり、軍事や外交に活躍した人物として描かれています。葛城氏の勢力が高まった背景には朝鮮半島への出兵のおり、渡来人を連れ帰った事にあります。連れ帰った渡来人を葛城の各地に居住させ、その技術力(金属加工術とか)を大いに活用した所にあります。
4世紀後半にはヤマト王権を支える有力氏族となり、襲津彦は仁徳天皇の皇后に自分の娘「磐姫」(いわひめ)を擁立するのです。この磐姫は仁徳天皇の後を継ぐ、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)各天皇の母となるのです。後の世の奈良時代、藤原不比等の娘・光明子が聖務天皇の皇后、光明皇后になる事を思い出させます。雄略天皇の時代(5世紀後半)には勢津彦の孫(orひ孫)である、葛城円(つぶら)大臣(おおおみ)の名が見え、円の娘は雄略天皇の妃(皇后よりはワンランクもツーランクも下ですが)となっています。しかし雄略天皇の一つ前の天皇、安康天皇の皇子二人が雄略に謀反を企てたとして、追いつめられます。その二人を円(つぶら)がかくまったとして葛城の居館にいた円を雄略は攻め滅ぼし、焼死させます(ヒビキ遺跡の居館跡の焼土はその際の焼土ではないかともいわれます)。一説には経済的基盤により、大豪族となって、天皇家と拮抗する存在になった葛城氏を雄略天皇が恐れて、滅ぼしたのではとも言われています。この事件以後葛城氏は急速に衰退して行く事になります。 
総括すると上記のような事ではなかったかと推察しました。

◆一言主神社(ひとことぬしじんじゃ):(葛城)一言主神社も葛城氏と関係が深く、又雄略天皇とも関わりの深い神社です。古事記、日本書紀両方に逸話が出ています。『ある時、雄略天皇が葛城山に鹿狩りに出かけると、天皇と同じ格好をした一言主が現われ狩猟を競います。天皇がお前は誰だと言うと、「悪事も一言、善事も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大神である」と言ったとあります。古事記では一言主が葛城山の神であると知った雄略天皇は、ひれ伏して、弓、矢、服を差し上げたとあります。日本書紀では共に狩りを楽しんだとあります。古事記は葛城氏がまだ力を持っていた頃の事を書き、日本書記では葛城氏の勢力が衰え、合わせて一言主の力も低下した頃の事を書いたのでしょう。
― 一言主神社参道、田中さんと筆者― ―乳が良く出ると言うご神木・樹齢1200年
一言祈れば、何でも叶えてくれそうな神社です。私も一言、娘の事を願いました。

◆宮山古墳(別名室大墓=むろのおおばか):橋本院からヒビキ遺跡、更に一言主神社、そして宮山古墳までの道々、山の水が駆け下りきて、何とその水のきれいな事でしょうか。一筋の水が小川になった山裾に宮山古墳はありました。見た目はえー?古墳なのと言いたいぐらいですが、4世紀末~5世紀初めの大型前方後円墳です。全長は240mもあり、全国18位を誇ります。葛城氏の首長の墓と考えてよく、葛城襲津彦(そつひこ)の墓に比定されています。この墓から1.2mもの大型の「家型埴輪」が出土した事で有名です。後円部に登ってみると、一部石室が顔を覗かせ、「長持型石棺」であることがわかります。葛城古道の終点でもありました。
   

―宮山古墳登山口とあり・竪穴式石室入口が覗けます

◆三輪ゲストハウスにて:宮戸バス停から御所駅へ戻り、田中さんの車で三輪まで送っていただきました。本当にありがたい事です。

~本日の歩数と歩いた距離は 26,500歩 15.9km でした~

                   連載3回目

                    

宿に戻ると、女性が一人、持参の食糧で腹ごしらえをしている感じでした。IT企業に勤めているとの事。元々は海外と京都が好きだったとの事。ただ、一度奈良を訪れて、奈良の「ひなびた感」が大変好きになって、今は度々訪れるようになったとの事。明日も、日に数本しかバスが通わない山奥に行くとの事。自分はペーパードライバーで、レンタカーも借りられないとの事。でも頑張って行きます、見たいな話をしていました。
我々二人はお風呂の前に、宿のおかみさんとご主人と記念の写真を撮りました。

「外人さんのいる居酒屋」
昨日の居酒屋が「鳥敏の三軒隣」なら、本日は「鳥敏」です。実は鳥敏が本家で母親、鳥敏の三軒隣は娘さんの経営となります。チーちゃんは鳥敏の孫になると言うわけです
鳥敏の三軒隣は娘さんが、母親に対抗して開いた店だと聞いています。昨日のチーちゃんの様子を話すと、やはり大変勉強熱心だとの事。英語にピアノと頑張っているとの事
 さて、店に入ると宿で一緒だった女性が、美味しそうに焼き鳥を食べています。三人の他客はなく、珍しく空いています。カウンターの並びだったので、話しかけると、やはり足りなかったとの事。海外旅行の話などしている所に、「大正楼」旅館の若女将が、一人の若き外人さんを連れて入って来ました。後で分かるのですが名はボブと言い、29歳です。若女将も英語が堪能で、陳列されているおばんざいの特徴と食べ方を早口(そう聞こえました)で説明すると、そのまま出て行きました(宿が忙しいようです)。ボブは少し不安そうで、どう注文していいやら、戸惑っているようです。見かねた私は、突差に、隣にいる女性が英語を喋れるのではと判断し、話しかけてよと頼みました。さすがですね、いやがる事無くボブに話しかけます。出身はイギリスで、オックスフォード大学を出ていることも分かりました。結婚していて、妻は今仙台の学会に出ているとの事。自分は日本の神社が大好きで、大神神社を訪ねて来たとの事などなど分かって来ました。明るく、人なつこい感じですぐに打ち解けました。しばらくすると女性は退席し、後は我々と店のおかみさんとになりました。ここで光が満を持したように、ボブに話しかけ、日本酒がうまいよと勧めます。光も海外旅行経験が豊富で、常に英会話を勉強しています。その成果が発揮されました。三人で大いに飲みますが、おばんざいだけでは足りないだろうと、おかみさんと相談しながら、日本らしい「とんかつ」を勧める事としました。とんかつを叩いて伸ばし、ころもをかけ、油で揚げる様子をボブは熱心に見ています。出て来たとんかつを美味しそうに食べる様子を見て、日英交流は大成功でした。私はと言えば片言の英語で、皆を取り持ったところぐらいでしょうか。
●三日目(4月14日(木))室生寺古道を歩く:本日も早くに起きだし、大神神社を歩いたのは勿論です。昨年と今回で七度目のお参りとなります。湿った曇り空のもとを粛々と歩くと、拝殿では神主が祝詞(のりと)をあげています。境内には神主と私だけです。その声は朗々と境内に響き渡っています。ああ、毎朝のお勤めなのだと思い、しばらく聞き入ってしまいました。こうやって1,600年続けてきたと思うと、悠久の時を感じました。
朝食を済ますと、三輪ゲストハウスともお別れです。また来年も訪れたいとの気持ちを残して、隣の桜井駅へと移動しました。本日の待ち合わせと泊が桜井駅のすぐ近くなのです。
宿は「皆花楼」と言い、昔風の古びた宿と言っていいでしょう。実は、本日も三輪ゲストハウスでよかったのですが満員で泊まる事が出来なかったのです。


偶然にもポーズする三者を撮る事が出来ました。古代史村のおじさんが教えてくれたゆるキャラは桜井駅の立て看板で現れてくれました。「卑弥呼」の幼い頃が思い出されます?

◆室生寺へ出発:桜井駅でソムリエの田中さんと9:40分に待ち合わせ、9;55分発の急行で「室生口大野駅」を目指しました。途中田中さんから、「茶臼山古墳」が見えるよと教えてもらいました。茶臼山古墳は全長207mもあり、三角縁神獣鏡が出土している事でも有名です。古代史ファンなら一度は探究に訪れたい古墳です。来年は来なければと密かに思いました。室生口駅までは15~16分でした。すぐにバスで室生寺へ向かうかと思いましたが、田中さんがすたすたと歩き始めます。「大野寺」へ行きましょうとの事。まず現われたのは岩が目につく宇陀川でした。対岸を見ると、磨崖仏が現われるではありませんか。予想していなかっただけにビックリしました。岸壁に高さ14mの線刻による、「弥勒菩薩像」が我々を迎えてくれたのです。ただ、望遠レンズのない私のカメラでは残念ながら鮮明には撮る事が出来ませんでした。やはり自分の眼で見るべきものです。大野寺は境内の枝垂れが大変美しく、本尊の「地蔵菩薩立像」は鎌倉期の製作で重要文化財です。しかし枝垂れ桜も盛りを過ぎていて見る事が出来ませんでした(残念)。 


大野寺のバス停は休憩所にもなっていて、今日で店じまいをすると言う物産店があり、地酒を何種類も売っています。日本酒にも関心の高い光は早速試飲みを楽しんでいました。田中さんと私はバスが来る間、宇陀川の流れに目を落としていました。静かです。

◆室生寺へ:まず最初に書いておきたいのは、室生寺金堂の仏像群と五重塔は特にすばらしいものがあります。これから一つづつ観て行きたいと思いますが、残念なのが、現在「朝日出版」が日本の名寺40寺を全30冊で「仏教新発見」として刊行中(5月24日現在23号)ですが、何とその中に入っていないのです。これだけの名寺を取り上げないとはどう言う見解があるのか正したいくらいです。私がそれくらいに思うお寺です。

⇒大野寺からはバスで室生寺へ向かいます。およそ15分でした。昼食は門前の食堂でと言う田中さんからの事前案内の脚注を読み飛ばしていて、私たち二人は桜井の駅前で弁当を買っていました。ただ、門前は人も少なく、閑散としています。私は早速とあるお店に入り交渉です。汁物を一品注文する事で了解を取り付けました。ゆずの効いたあったかい素麺で弁当にちょうど合いました。昼食を済ませいよいよ室生寺です。

⇒室生寺は女人禁制だった高野山とくらべ、女性の参詣が許された事から、「女人高野」としてつとに有名です。現在は真言宗室生派の大本山です。寺伝では、680年役小角(えんのおずぬ)の開創、空海の中興としています。また古い記録(775年頃)によれば、山部親王(後の桓武天皇)が病気になられた時、5人の行い正しき僧(淨行僧)を寺に招き、延命の法を行わせたところ、病気が恢復されたとあります。平安時代以降は朝廷の命により度々旱魃の被害や洪水を避ける為、祈雨(きう)、祈止雨(きしう)の修法が行われて来ました。これはこの後訪れる、「室生龍穴神社」とも関係があります。室生寺はどう言う場所にあるかといえば、「山の鞘(さや)に包み込まれているように見える」山間にあります。決して高い所にあるわけではありません。しかもすぐ下は室生川が流れています。
山の鞘のせいでしょうか、室生寺は1,200年もの間一度も落雷や火事にあった事がないそうです。現在のままだそうです。非常に珍しいことです。稀有な例と言えます。
 室生寺は人が少なく(桜が終わったので)、静寂な中に、ほっとするものがありました。寺社のいいところはここにあるのかかもしれません。
金堂の諸仏と十二神将は今回何としても見たい、感じたいよ思っていたのです。そして念願かなってゆっくりと見る事が出来ました。ただ、写真撮影が不可でここに掲載出来ないのが残念でたまりません。百聞は一見にしかずなのですが、残念です。さて、イメージですが、金堂の柱と柱の奥、須弥壇の上に諸仏、十二神将が立ち並びます。向かって右から⇒

 ① 地蔵菩薩像   像高 160cm 重文 平安前期
 ② 薬師如来像   像高 164cm 重文 平安時代
 ③ 本尊釈迦如来像 像高 234.7cm 国宝・赤い衣が目を引きます 平安前期
 ④ 文殊菩薩像   像高 205.3cm 重文 平安時代
 ⑤ 十一面観音像  像高 196.2cm 国宝 平安前期  

 これらの諸仏の前に立つのが「十二神将」(重文・鎌倉)です。十二神将は仏様を守る、特に薬師如来を守る神様とされています。薬師如来の十二の方角を守るとされ、頭には所謂、子、牛、寅のあの十二支を頭に乗せています。薄暗い中でみる、この構図は十二神将が今にも飛び出してきそうな気配を感じます。尚、十二神将の像高は104.8cm~95.4cmです。諸仏、十二神将が一幅の絵画の中に収まっています。
尚、結果論としてはよかったのですが、3月17日~4月17日までが金堂の特別拝観の期間だったのです。我々が訪問したのは4月14日でした。危なく見られない所でした。
⇒金堂横の階段を見上げると写真の通り国宝五重塔です。見た目からも分かる通り、大きな五重塔ではありません。現存する屋外の五重塔としては、最も小さいが、古さは法隆寺五重塔に次ぐ古塔です。年輪年代法で、使用されている木材は794年に伐採された事が分かっています。階段を見上げると五重塔ですが、階段の両サイドには季節(春)がくればたくさんの石楠花が咲くそうです(残念ですが、まだでした。5月上旬)。

⇒室生龍穴神社:室生寺を少し上った川の淵に龍穴神社はありました。歴史的には室生寺より古く、室生山の竜穴が竜神信仰の対象となりました。竜が住むと言う穴に向かって降雨を祈ると、たちまちにして雲が湧き、雨が降り、五穀は実り、人々は喜んだのです。
龍穴神社が先にあり、神宮寺(神社に附属して建てられたお寺)として室生寺が建てられたと言えます。いずれにしても、平安の昔、いやもっと前からでしょうが、旱魃に人々は苦しんでいたのです。祈らずにはいられなかったのです。
実際に訪れてみると、社(やしろ)は小さいが、巨大な杉が林立し、龍が住む穴にふさわしくじめじめとしています。まさにパワースポットです。
 大杉の間から鳥居が見え、更にその奥に社が一直線上に立っています。見ごたえのある風情を垣間見る事が出来ました。
⇒仏隆寺(ぶっりゅうじ)へ:仏隆寺は室生寺の南門に当たり、850年に空海の弟子堅恵(けんね)が建立したと言われます。「堅恵の廟」と言われる石室は重要文化財です。また特に有名なのがお茶です。大和=日本茶発祥の地であり、空海が持ち帰ったとされます。今でも山門に至る197段の石段の横にはお茶が植えられています。更に同じ石段横には樹齢900年と言われる「モチヅキ桜」(県の天然記念物)が大きく張り出して咲いていました。残念ながら満開は過ぎていました。
   
⇒この仏隆寺へ至る道は険しいものがありました。室生寺から仏隆寺まで歩くのが「通」の取るべき道だとソムリエの田中さんが言います。ただ、田中さんも相当昔に歩いたきりだとの事。歩き始めてしばらくすると、田んぼの整備をしていたおじいさんに出会いました。私が「仏隆寺」まではどのくらいかかりますかと尋ねると、「あと15分くらいだわ」と教えてくれました。峠を越える割には楽だなと思いました。しかし、本当は・・・?
 しかし本当は、15分どころではありません。まだかまだかと歩いていると、あと4.7kmの標識が出て来るではありませんか。あの15分は何だったのでしょうか。人の良さげなおじいさんだったのですが。山道を更に1時間以上歩いたのは間違いありません。都合7kmの峠越えでした。それでも添付写真のように、盛りならばどんなに素晴らしい桜か、小さなお堂と好対照でした。黄色い標識を奈良のあちこちで見かけていましたが、「こども110番の家」とはっきり確認する事が出来ました。また、こんな山奥に、こんな大きな屋敷があるとは、横溝正史・金田一耕助シリーズの「犬神家の一族」に出てくる屋敷を彷彿させるほど大きな屋敷がありました。どんな人が住んでいるのでしょう。余計な事ですが。
そんなこんなで仏隆寺へ着いたというわけです。2時間半程歩きました。道々、各所で桜や桃の花がまだまだ咲き乱れていて、いっとき身と心を休める事が出来ました。
仏隆寺を下り、高井バス停から榛原(はいばら)駅へ出て、桜井に戻ったのは6時頃でした。ソムリエの田中さんとは桜井駅でお別れです。2日間本当にお世話になりました。ありがとうございました。涙が出そうになりました。またきっとお会いしたいと思います。
   ~本日の走行距離は24,500歩、14,4kmでした~