第3回 鳥越先生


~私の稲門時代~ <昭和20年代>
               
早稲田大学第一文学部哲学科心理学専修に入学した私は、もとは理系志望であった。病弱な私に、周囲の者たちが理系に進んだら毎日学校へ行かねばならないので体が持たない、文系へ行けというので、それなら心理学が理系に近かろうと選んだ次第。
文学部在学中一番楽しかった授業は田辺尚雄先生の「音楽史」。持参されたレコードを手回しの蓄音機で聴かせながら、西洋音楽の話。そのころはここで聴いた演奏家が来日する時期だったので、音楽会にはよく行った。芝居や寄席にも通った。同じ中学出身の英文科の友人と、第三ゴ学の時間と称して碁会所へも行くし、彼が麻雀好きだったので誘われて雀荘に行ったこともある。
心理学の勉強はあまりしなかった。心理学の授業に出ると、よく聞かされる言葉が「適応」だった。これからはすべてに適応できる人格が望まれるなどと。
私はこれに反発し、演劇専修に移る覚悟をした。どろどろした歌舞伎や浄瑠璃の勉強が向いていると思ったのだ。
 転専修の合否は主任教授の面接だけで決まる。演劇博物館長も兼任されていた河竹繁俊先生の面接を受けた。演劇科に移って何をやるのだとの問いに、歌舞伎の研究がしたいと言った。先生は今ごろ歌舞伎を研究するのは馬鹿だとおっしゃった。歌舞伎作者の嗣子で当代歌舞伎研究の第一人者であられた先生のその言葉を聞いて、とまどったが馬鹿の一念でやりますと答えた。受け入れて下さった。その時、部活の歌舞伎研究会には入ってはいけないと釘を刺された。彼ら同好者と一緒になってはいけないと。心理学時代の遊びはすっぱりと止めた。先生方には鍛えられた。一生懸命努力し、勉強の面白さがわかりかけたので大学院に進むことにした。
 心理学のころは専ら中学以来の友人と遊んでいたし、音楽会や芝居へ行くときは一人だった。演劇科へ入っても当時は専修別に入学したので、途中からではクラスに馴染めなかった。恩師郡司正勝先生をお迎えして、学年・学部を越えての勉強会を続けたが、参加者は五人前後でしかなかった。そんなわけで、学生時代の友人は非常に少ない。自分で思うには、人付き合いの悪いかわいげのない学生だった。以上、昭和二十年代のことである。

                       鳥越文蔵(昭和30年卒業)