第4回 工藤副会長

~私の稲門時代~ <昭和30年代後半>             

昭和35年に高校を卒えて、大学を受験すべく急行津軽に乗車、大館を後にする。まさに、これが「ふるさと」からの巣立ちだった。受験したが敢えなく一浪、一年間予備校に通う。翌春、早大法学部に入学。四年間、自由な気風の中で過ごした。
 中学、高校とテニスを続けて来たこともあって、体育実技は一年間テニスを履修。その後、テニスを通じて知り合った仲間と離れ離れになるのを寂しく思い、学生同士でテニス同好会を立ち上げた。昭和37年設立のこの同好会は大学で最初と言われた。
 今日もなお存続し、昨年11月には現役、OBが大学に集って設立55周年を祝ったところである。そして、現在も同好会OBの月例テニスは続いていて、埼玉県営コートで汗をかいている。アフターテニスは東川口駅前の居酒屋で軽く「いっぱい!」で談論風発。この同好会の名称は「早稲田ヤングテニス」と称し、後期高齢者に到達した今もヤングテニスをやっているつもりである。
 学生時代は出身地秋田県大館市の「大館稲門会」に属し、学生たちだけの企画運営で夏季公演を実施した。初回は早稲田大学交響楽団、翌39年夏にはハイソとニューオルリンズによる公演を実施し、地元の皆さんの好評を博したものでした。
勉学を通じ、テニスを通じ、良き仲間に恵まれ、有意義な学生生活であったと思う。これも青春・・あれも青春の思い出です。
 就職については、在学中から郷党の代議士の東京事務所に何かと出入りしていたこともあって、秘書の方から卒業したら秘書になってはどうかと勧められその気になっていた。四年の夏休みに大館に帰省すると、着くなりすぐに父から市長のお宅へ行けと言われ早速に伺う。即、言われたことは、「君は卒業後、先生の秘書になるそうだが、本当か?」「ハイ!そのつもりです」「ワシは反対だ。政治家の秘書というのは、君のような白紙の人間がなるものではない。君は先ず就職して数年の後に、やはり秘書をやりたいと思ったら、その時点で責任を以って先生にお願いしてやるから、先ずは就職しなさい。」と説得され、納得。
 既に夏休みの終わり頃、就職戦線も終盤で、慌てて東京に舞い戻り業種選びだ。金融、証券その他種々検討するも納得せず。実家は田舎の小さな土建屋。やはり同業の建設業界に絞り、父にそのことを伝えた。父は「大手はやめなさい」と。大手に入ると金の苦労を知らない人間になってしまう。実業の世界を生きて行くためには金のやりくりを知らなければ使いものにならないと言われた。
しかし、倅というものはとかく父親には反発したがるもの。
「鶏口となるも牛後となる勿れ」「寄らば大樹の陰」・・・結局「大樹」を選び、鹿島建設に就職してしまったのです。そしてある日、父の意に反した倅を別の郷党の代議士(元建設大臣)のところへ連れて行ったのです
 その先生が与えてくださった訓戒は身に沁みました。「大企業の一員になるということは、大きな機械の小さな歯車になることだ。例え小さな歯車でもキチンと他の歯車と噛み合う事が大事。要はそこに必要とされる歯車になりなさい」と。その後はオール鹿島の人生です。
 現在、志木市に在住し、志木稲門会も発足し、素晴らしい仲間を得て、オール早稲田の人生を歩ませてもらっています。
    
            工藤 捷(昭和17年生まれ 昭和36年入学)