第18回 大貫正男

 

         早稲田とのえにし 
                      

                     1972年社会科学部卒業   大貫正男

 昭和23年、朝霞市(当時は内間木村)を流れる荒川沿いの農家に生まれる薄暗いランプの灯で食卓を囲んだ幽かな光景が記憶に残る。「団塊世代」と呼ばれる年代に生まれた私は戦後復興、高度成長などいくつかの時代を経験して来た。

 ところで、皆さんは信じられないかもしれないが、当時朝霞は「基地の街」と呼ばれていた。市のど真ん中に「米軍基地キャンプ・ドレイク」が陣取っており、覗けば鉄条網(有刺鉄線)の向こうに銃を構えた米兵が見られた。中学2年の時には、基地内でアメリカンスクールの学生と英会話で交流する機会が設けられた。しかし、映画に出てくるような格好の良い男子や金髪の女子に圧倒され、一言も話せなかったのは今でも心残りだ。
高校1年の時にベトナム戦争が始まり、基地には多くの死体や負傷兵が運び込まれ、戦争の恐怖を身近に感じた。夜になれば、南栄にある米兵相手のバーやクラブには派手なネオンが輝き、占領下を思わせる光景に違和感を抱いた(中條克俊 著『君たちに伝えたい 朝霞、そこは基地の街だった。』梨の木舎 2006年)。沖縄返還運動が激しくなるにつれ、基地が居座っていることに矛盾を感じた。そうした環境にあったせいか、次第に反戦、貧困、公害(水俣病など)に関心を持つようになった。

 もっと社会を知りたい、政治に関わりたい、それを叶えてくれるのは早稲田しかないと、昭和43年、社会科学部に入学した。社学は2期生で、先輩は2年生しかいなかった。社学のメリットは昼間の時間がたっぷりあることである。一人旅をモットーとする「旅の会」と「中小企業研究会」(以下、「中研」という)というサークルに入った。勉強も遊びもしようという訳だ。始めは、抑圧から解放された喜びで、九州や北海道への一人旅を楽しんだり、信州にある旅の会所有の山小屋での合宿は本当に「青春」そのものであった。
 一方、同年10月には国際反戦デーで新宿駅に全学連が突入占拠する事件が起きたり、東大・日大等で学生と大学との闘争が激化するなど社会は騒然としてきた。早稲田でも、革マル派の大隈講堂占拠、全共闘による第2学生会館占拠、さらに革マル派と中核派の内ゲバなどが起こり、「ノーテンキに旅をしている時ではない」と旅の会を退会、それからは中研の活動にのめり込んで行った。「遊び」に物足りなくなり、思想と理論構築に目が向いたのだ。

 中研の会員数は約35名、部室は旧4号館(商学部)の地下にあり、そこで先輩から「資本論」、中小企業論、労働問題などを学んだ。部室にはヘルメットが並んでいた。「現代資本主義とは何か」など口角泡を飛ばした議論は実に新鮮であり、心地良かった。毎年、夏には実態調査があり、実際に刈谷市の自動車下請工場、浜松市や桐生市の織物工場、葛飾区のねじ製造工場、川口市の鋳物工場を訪ね、社長や従業員にヒヤリングした。それを報告書にまとめ、早稲田祭で発表した。今思えば、社長はよくぞアポも取らない学生の調査を受け入れてくれたと今でも感謝している。
 早稲田に全学連各派が集まり、連日デモが繰り広げられアジ演説や立看で騒然としていた。清水谷公園ではデモの最中に手をケガしたこと、米軍タンク車輸送阻止闘争では立川駅で動力車労働組合(動労)と学生が合流した光景が忘れられない。仲間の何人かは四谷の機動隊のお世話になった。筆者は徐々に実力行使について行けなくなり、それとは距離を置くようになった。

 中研には、文学、ジャズ、クラシック音楽などに通じている者がおり、その影響を受けた。高橋和巳の本などをむさぼり読んだり、西門にある「モズ」というジャズ喫茶にも連れて行ってもらった。中研は硬派の集まりであったが、近くの某女子大生2名が入部したときは活気づいた。ときには先輩から某女子大との「合ハイ」の交渉を命じられ、見事相模湖でのひとときを勝ち取り、ボート遊びの興に乗ったことがある。
 いくつかのアルバイトも経験した。市場調査、うなぎ屋の出前、デパートの配送、帝国ホテル建築現場での資材運び、礼文島民宿の手伝い、線路工事等、短期間が多かったが15種類は経験したと思う。帝国ホテルに泊まったとき、「この辺りで働いたな」と思い出すと「思えば遠くへ来たもんだ」と思った。
 さて、肝心の授業だが、最後の授業は午後8時頃終わった。大隈講堂前のおでん屋で腹ごしらえをしてから朝霞の自宅に帰った。牛山積先生の「公害論」は良かった。

 忘れられないのは、1972(昭和47年)2月25日の卒業式である。連合赤軍が籠城する浅間山荘事件が起こり、丁度その日は武装警官による総攻撃を開始した日であった。2トンの大鉄球が壁に大穴をあけたテレビ中継を横目に、「これからどう生きたらよいのか」言いしれぬ虚脱感に襲われた。浅間山荘事件は一つの時代の終焉を告げる象徴的な出来事だった。
 就職する気にもなれず、挫折感を引きずってアルバイトを続けていたが、親父から「一体これからどうするんだ」と詰問され、思いついたのは司法書士という職業だった。自営業という自由さと「少しでも社会の役に立ちたい」に憧れ、何とか自立したいという思いから司法書士への道を選んだ。昭和50年に当地に事務所を構え、現在に至っているが、その選択は良かったと思う。困っている人々の相談に乗れたし、人権や福祉の活動にも関わり、社会改革の一翼を担えたことを誇りに思う。

 現在は、商議員・司法書士稲門会の会長として母校との長いえにしが続いている。

①1970年 中小企業研究会部室前にて

➁1971年 京都旅行

③1971年 中研の仲間と

1971年 礼文島アルバイト先の民宿にて