第11回 森田直樹

     私の稲門時代
                         森田直樹 
                 昭和32年第一商学部卒業

上写真:志木市制施行40周年「新ふるさと写真集」平成23年月発行より
まだ家がない志木市本町三丁目の御嶽神社(右奥)付近を歩く森田さん(昭和29年) *書籍は一ノ倉相談役提供。
           (以下、敬称は略させて頂きます。)   
 私の学生時代は、安保闘争の前で、割に平穏な時代だったと思います。もはや戦後ではないと経済目安が出たのが昭和31年7月でした。表通りには焼け跡はなくなっていましたが、裏の方はまだまだでした。在学中に、校史に残る出来事といえば、早稲田祭が始まったことだと思います。第1回の早稲田祭は昭和29年に、それまで各学部で行っていた学園祭を統一することになりましたが、それは名ばかりで、名実共に日本一の学園祭になったのは、第2回目の早稲田祭(昭和30年)以降だったでしょう。一番の評判を集めたのは、確か、文学部の三階に陣取った漫画研究会、東海林貞夫、福地泡介、團山俊二など凄い面々でした。甘泉園でのフォークダンスの集いがすごい関心を集めていました。六大学野球は、確か、在学中に3回優勝(2年の時と3年の秋と四年の春)、早慶戦では一年生の時、名手として鳴らした広岡選手のグラブに触らない大トンネルは見事でした。又、3年の時だったか、二死満塁で代打山口選手がツースリーからの大空振りで、捕手が取れず走者全員が生還するという場面が忘れられません。そして何といっても、立教大学の長嶋茂雄が独特の雰囲気をもっていました。その当時は背番号が無い時でしたが、何処に居てもすぐ目に付く存在でした。            
 特に話したいエピソードは、3つあります。                   
① 確か、3年生の時だったか、未だ終戦後の匂いが強い中、スクールバスにも乗らず、毎日弁当を持って行き、一生懸命貯めた当時の三千円を入れた財布を大教室で落とし、次の教室で気が付いて引き返したが、見つかりませんでした。学生証も出てきませんでした。残念でした。当時の三千円は、今の五万円から六万円にあたると思います。スクールバスは往復十五円.映画が学割四十円でした。盗んだ人は相当お金に困っていたのだろうが、一生の傷になっていると、時々思っています。                    
② 戦後の「ふじ山のトビウオ」古橋や橋爪を追う、水泳日本の長距離自由形選手山下勝次が、同じクラスに居ました。礼儀正しい人で、5メートル先で帽子を取って挨拶する位でした。ある時、新聞にその人がフイリッピンの水泳大会に遠征するという記事があった日に、授業で、先生が名前を呼んで出欠の点呼を取ったら、「ハイ」と代返した奴が居た。先生は平然と知らん顔して、「あゝ、今日は欠席ですね。」と云って次へ進んでいきました。                                   
③ ある講座で、政治学だったか、先生が五問中一問を出すと、試験の予告問題を出したのですが、当日用紙を配布したら、未だ問題が出ていないのに、直ぐに書き出した奴がいたのにはビックリしました。友人Aは、その中の第一問に山を掛けて丸暗記して来て、そのまま黙々と書き出したのです。先生の出した問題は、まさにその第一問で、山は当たりました。                 
同学年の商学部の女子は六名で名花六輪と称していましたが、四年間で同級生の女の人とは一度話をしたのを覚えています。                
ある時、学帽をかぶり、友達の福山の実家を拠点に、倉敷・岡山・尾道・広島・厳島・高松・屋島・琴平を回って旅をして、一週間で一万円ですんだのです。
屋島では、昭和三十年四月一日、桜満開、眞にうららかな日で、自分は成績もまあまあ、健康にも恵まれ、これが人生の最高かなと、ふと、桜の下で思いました。          

   春 風 や 
   闘 志 い だ き て
    丘 に 立 つ   
                虚子               

同じ学年には、前述の山下君、志木の山本仁之進や西武の堤義明とか、ヨットで黒い顔をしていた日本セイリング協会名誉会長のSB食品の山崎達光、富士通の役員になったが若くして亡くなった山岡俊生、卒業後南海に入って二十一勝をあげた木村保等が居ます。印象的だったのは、小柄でよく下駄をはいて、てかてかの学帽をかぶり事務室の前で喋りまくっていた青島幸男。又、後に野球部監督になった石井連蔵とはドイツ語のクラスで同じでしたが、一度も教室では会ったことが有りませんでしたが、彼が五年次の時には毎日のように顔を見ていました。テニスの加茂公成、世界のタミヤの田宮俊作等々がいます。                         
先生方で思い出されるのは、英語の五十嵐新次郎先生、体育の登山のアコンカグヤ登頂で著名な関根吉郎先生、通論の島田孝一先生、ゼミの青木茂男先生、学部長の中島正信先生等々多士済々です。                   
都立北園高校から早稲田へ進学した仲間は、サバスの石渡元治、アルソックの漆間英治、ボニージャックスの鹿島武臣、脚本家西條道彦等々です。     
商学部卒業後六十年余、未だに、「とうゆう会」という例会を新宿ライオンで年四回続けています。松下の遠藤和雄、ダイヤモンドクレジットの永井暁、日本火災の永瀬靖明等々です。                          
娯楽、レクリエイション、遊びは、中心は何といっても映画で、年五十本位は見ていました。日本映画では、「二十四の瞳」(高峰秀子)や「太陽の季節」(石原裕次郎)、洋画では、「ローマの休日」(オードリーヘップバーン)とか「理由なき反抗」(ジェームスデイーン)等々。六大学野球では春秋土曜日には必ず神宮へ、プロ野球では後楽園で川上哲治のプレイをみています。歌舞伎、新派、新国劇、オペラ、新劇も結構楽しみました。当時、就職すると、初任給一万二千円位、最低で一万円か、人気の有ったのは一流銀行、野村証券、東京通信工業(ソニー)、東京電波塔(東京タワー)、ホンダ、松下、電々公社、一流商社でした。                  
思い出すまま雑然と書いたが、思い出せば思い出す程、色々と思い出すのできりが無いようです。
                             了       
下写真:著者近影(左側)