第21回 万木正弘

 

           私の稲門時代 
                      
                                万木正弘

 私の稲門時代と言われても、サークルに入っていたわけでもなく、かといって何かに一つのことに熱心にやったと言ったこともないため、記憶も朧ではありますがそんな中思い起こしてみますと。
 私が入った1964年は理工キャンパスがだいたい出来上がり、全ての授業がこのキャンパスで行われるようになった年です。ですので最も早稲田らしい本部のキャンパスにはほとんど行く機会がなく学生時代を過ごしました。
 入った当初、校舎はできたばかりの真新しいものでした。主に授業を受けた校舎(2~4号館)は平面的に正方形で、その真ん中に階段、四つの角を背に四つの教室があり、教室の中は階段寄りに教壇、それに向かって学生の座る椅子が設置され早稲田の建築の先生が設計されたのでしょうか大変斬新的な設計だったと思います(今でもそうでしょうが)。ただ躯体のコンクリートはできたばかりにも関わらず補修した跡がそこここにありました。ある教授がこのコンクリートをほめてくれたのは韓国の先生だけだ、と笑いながら話してくれたのを覚えています(写真1)。
 この年は東京オリンピックが開催された年で、文学部の記念会堂が何かの競技会場として使われたため、オリンピックの期間中全学が休校となりました。理工のキャンパスはあまり関係なさそうでしたが、そんなもんかと思いながら休みを楽しんだ記憶があります。
 2年(1965年)の秋には、学生会館の管理方法に関し大学側と学生との交渉がこじれ大学紛争が勃発。折からの学費値上げ問題と重なり次の年の1月にはストライキに突入、授業は中止。本部ではバリケード構築、学生集会の開催等かなり激しい闘争があったようでしたが、理工学部では比較的穏やかで、翌年の4月には学年末試験実施可否を問う学生投票で受験賛成が多数を占め、5月には授業が再開されました。
 3年になると将来土木をやっていくうえで必要となる基礎的科目が主流となり、1,2年の頃より真面目に授業に出たように思います。その中で思い出深いのは3年の夏の測量実習です。荒川の岩淵水門付近の河川敷でトラバース測量を行いました。だだっ広い河川敷に木杭が5~6本多角形になるよう打ってあり、各杭間の距離(数十mと記憶)とその間の角度を測定し図面に書いて提出するのが課題です。
数十m離れた杭間の距離を正確に測るには、検定済みのスティールテープを用い、ばねばかリを用い一定の力で引張った状態で「ハイ」の合図で始点と終点の値を同時に読取るとともに温度を測定し、後で温度補正を行って出すわけです。角度はトランシットという望遠鏡を回転させて回転角を読み取る機械を用います。その際、トランシットを正確に杭の位置に据える必要があり、さらに回転が水平面になるよう調整します。多角形の杭を順に図り、持ち帰って図面に落とすわけです。
測定結果は多角形になるはずですが、距離、角度とも測定誤差がかなりあり多角形になりません。最終的な誤差(これを閉合誤差といいますが)を計算すると一般に許容される誤差の数十~数百倍にもなり、どうしたものかと思いましたが、測量をやり直すわけにもいかずそのまま提出しました。幸い落とされることもなく単位を取得できました。またこの実習の際荒川を横断するために和船がおいてあり、櫓の漕ぎ方を教えてもらい荒川を行ったり来たりして遊んだことは測量を実施したことよりよく覚えています(写真2)。
 4年になると卒業研究のため、各研究室への配属が決まります(写真3 研究室の仲間)。私は村上研究室に入りシールド工法に関する実験研究を、さるゼネコンの研究所で行いました。隣には養豚場があり風向きによっては大変くさい臭いのなか実験を行ったことが印象に残っています。
 4年で卒業ですが、もう少し学業を極めたかったといいうより学生でいたかったとの思いで大学院に進み、さらに2年間早稲田でお世話になりました。今思うと早稲田で過ごした6年間はのんびりした良き時代であったと思います。

写真 1 建設中の校舎


写真 2 実習中に遊んだ和船

写真 3 研究室の仲間 (右から3人目が筆者)