第5回:香川副会長
私の稲門時代
昭和40年代後半
1946年、香川県高松市に生まれる。4歳のときに川越に。
川越中央幼稚園、第三小学校から、私立武蔵中学へ。
1965年3月、武蔵高校卒業。
小学校時代は児童会長、武蔵では剣道部主将、代表委員長(生徒会長)。
大学受験1年目、東大文Ⅲ二次で不合格。
2年目、東大文Ⅲ高熱を発し一次であえなく不合格。
弟が開成高校から文Ⅰ現役合格。
3年目の1967年、早稲田文学部合格、慶応文学部合格、東大文Ⅲ二次で不合格。東大は入試制度が変わっての受験であった。
「慶応には行かせない」の親父の一言で早稲田へ。
早稲田と慶応の入試では、万年筆一本と受験票だけ持っての試験会場入り。
舐めていたのか、今思えば、人を食った受験生であった。
やる気もなかったし、おぼえているのは、慶応受験の昼休み、芝生で寝ころんでいた時に女の子におにぎりもらったこと。
あの子は受かったのかな。
早稲田は英語、国語、数学での受験。
英語と数学は、満点との自信があった。
入学後に大隈奨学金(学部で1~3人。授業料免除)もらえたので、たぶんそんなもんだったのかな、と思っている。
高校3年のはじめ、自動二輪の免許を取りに行った際、色弱のあることがわかり、医者になることを断念。
近い領域として心理学を選択。
志望を理Ⅲから文Ⅲへ変更。
残りの人生がなくなったような脱力感、虚無感。
くわえて、「大学と言えば東大」という極度の東大病での浪人の2年間であった。
母親からの、「トラックの免許でもとっておいたら。食うには困らないわよ」とのわけのわからない助言もあり、浪人中は、駿台にも通ったが、大型一種の免許を取ったり、剣道3段とったり、ヤクザと喧嘩したり、武蔵の仲間と麻雀やったり、五木や立原の世界に近いところにいた気がする。
間違っても石原の世界ではなかった。
1967年4月、早稲田大学文学部入学。
剣道部に入部願いを出しに行くと、道場では白垂をつけた10名程度の1年生が先輩たちに混ざって練習をしている。
その多くが剣道部受験枠での合格者、剣道で早稲田に来た連中だった。
武蔵では主将だった、某私大からは剣道枠推薦の話もあった、3段をもっている、などのうぬぼれは木っ端みじん。
練習は、素振りからはじまった。
それでも、夏休みの北海道札幌での合宿あたりからは、先輩や同期との交友関係も深まり、道場だけでなく飲み屋や雀荘で時間を共有することとなる。
浪人時代からの鬱積した気持ちに区切りをつけ、「私の稲門時代」が始まるのは、2年生になり、白垂れが黒垂れに変わり、通し番号入りの剣道部の襟章をもらった時からであった。
家庭教師や大型トラックの運転手で小遣いを稼いだが、一番の思い出は、語学クラスの仲間二人を誘っての、入試の際の模範解答の販売であった。
早稲田の入試では、試験開始後20分経つと、早稲田キャンパスなどの新聞部に問題が渡される。
そのコピーをもらい、問題を解いて、青焼きで印刷し、昼休みに午前の試験が終わって出てきた受験生に売るのである。英語と数学。それぞれ100円。飛ぶように売れた。
回答の出来栄えは、夕刻に配られる予備校発行のものにひけはとらなかった。受験生の多くがいくつかの学部を受験するので、2日目、3日目にはお得意様もできた。
同時に合格電報のサービスも行った。「サクラサク」、「サクラチル」のあれである。合格発表の後、その記録を予備校に売り込んだ。やることが乱暴だったけれど、そんな時代だった。
その時、入試問題のコピーを回してくれたのが、今の家内。
文学部のスロープで吉永小百合とよくすれ違ったが、小百合よりかわいかった、と思う。もうけを山分けした三人は、「彼女にお礼をしなければ」と相談。
二人を抑え込んでその役をせしめたのが僕。
お礼は「若者たち」の映画鑑賞と食事。
なにがお礼だ、デートの誘いじゃないか。
2年生になって、彼女に告白。
交際を許されて、何回かの危機があって、それでも卒業の年の秋に結婚。
学生運動は文学部ということもあって革マル。
ヘルメット被ってマイクを握って、「沖縄返還反対、沖縄に独立を」と叫んだこともある。
当時の早稲田は、体育局の学生に対してさえも、「大学当局に協力しろ」などと、偏狭なことは言わなかった。
剣道部では、「学生運動は各自の自由」の方針が貫かれ、バリケード破りに駆り出されることもなく、むしろ、デモや集会に参加することが多かった。清水谷公園の近くでスクラムが破られ、機動隊員に追われた時の恐怖は忘れられない。
横を走っていた仲間がドバっと口から血を吐いて倒れる。鉄の肘撃ちを食らったのだ。どこをどう逃げたのか、たどり着いた日比谷公園でアンパン配られ、「助かった」の気持ちでその場に崩れ落ちたこと、今でも、鮮明に覚えている。
2年で教養課程が終了、3年からは学科に進んでの専門課程。
心理学科は難関であったが彼女ともども無事に進級。
心理統計などの専門科目、演習科目、実験科目との出会いが、失いかけていた学習への意欲にふたたび火をつけることになった。
卒論のテーマに、「フラストレーションの実験的研究」を選んでからが、真の意味での、早稲田での勉強の開始だった。
大学院への進学を考えていたので、就活はせず、院生研究室に入り浸り、卒論に没頭した。
卒論のテーマの先に、将来、研究者になったときの目標がある、との確信にも近い思い込みがあった。
1971年、大学院入試は見事に失敗。
ロックアウト中に喫茶店で有志に授業を行っていた教員をつるすなどの行いをしていた学生には、大学院進学への道は閉ざされていたのかもしれない。
卒業後の早稲田に未練はなく、立教大学大学院文学研究科の豊原教授を訪ね、翌年の受験について相談、助言をいただく。
秋には結婚。
彼女の父親に「可能性にかけるしかないな」と言わしめての結婚であった。
志木の木造アパートで、旺文社の「時代」に原稿書きながら卒論の見直しと受験勉強。人生で2度目、のべ3年目の浪人生活であったが、横には妻がいた。
1972年、立教大学大学院文学研究科心理学専攻修士課程に合格し豊原教授のもとで産業心理学を学ぶ。
1974年からは、社会学研究科応用社会学専攻博士課程にて安藤教授から産業心理学の指導を受ける。
立教で助手を経験してのち、1978年からは、大阪産業大学で講師、助教授、教授。留学(1986~1987年)はUSC(南カリフォルニア大学)。
スクールカラーは早稲田と同じのえんじ。
トロージャンがシンボルであった。1992年、流通経済大学にうつる。
社会学研究科で研究科長を務めたのち、2017年3月、退職。
流通経済大学名誉教授。
早稲田での4年間があったことで、その後の研究者への道が拓けた、と今では思う。
勉強もそうだが、様々な人との出会いの経験が、自分をつくってくれた気がする。
占い研究家浅野八郎、映画監督中平康。早稲田に行かなければ出会うこともなかった人々である。
浅野先生のおかげで旺文社とのつながりができた。
中平監督の祖師ヶ谷大蔵のお宅には、剣道部の先輩から、「かたにとられた日本刀を取り返す」と、徹夜の麻雀に呼び出されたこともある。穴八幡の下、高田馬場から来てちょうど文学部への曲がり角の崖上に「ジャワ」という、ちょっとおしゃれな、スパニッシュオムレツがメインメニューのカレーハウスがあったのを憶えているだろうか。
中平監督の連れが弟夫婦にやらせていた店だった。
この夫婦にかわいがられ、ツケも許された。
彼女との待ち合わせや食事はたいていこの店だった。金もないのに、どうしていたのだろう。
いざとなったらトラックの運転手、生活力は結構あったようだ。
カッコつけてツケにはしたが、踏み倒すことはなかった。
こうした経験が、研究者としての視野を「人間」から「人間と人間の関係」、「社会」へと拡大させ、研究の領域を「労働」から「余暇」、「観光」へとシフトさせていく下地になったのではないか、と今は自己分析している。
研究者としての最終的な立ち位置は観光心理学者、観光社会学者ということになる。
若いころの業績から言えば産業心理学者であるが、流通経済大学に移ってからは、国際観光学会(JAFIT)の設立に協力、長らく会長を務めたこともあり、観光が研究の主領域となった。観光研究への傾斜は、1967年の国際観光年の標語「観光は平和へのパスポート」との出会いに始まる。
観光には人と人、文化と文化を結びつける力がある。この信念が観光研究へのモチベーションを支えてくれた。
今、世界では、様々な位相での絆の断絶が一挙に進んでいる。しかし、観光は、文化を見る見せるの社会現象、相互理解の仕組み、平和の関係拡大の装置なのだ。
日本に世界に誇れる光はあるのか、あるとすればそれは何か。
その答えを再確認することが今の日本の、われわれの課題だ。
阿見町の予科練平和記念館運営協議会の委員長、江戸川看護専門学校の校長など、まだまだ、ゴルフ一筋とはいきそうにない。