第30回:久保 木法男さん
私の稲門時代
1975年(昭和50年)
政治経済学部経済学科卒業
【稲門との出会い】
私の「稲門」との出会いは、中学時代に遡ります。中学2年のとき、当時新設された他の大学の名称が冠せられた予備校に通うこととなり、中学3年の頃には、自宅(西武新宿線の沼袋駅)からの通学に便利な早大学院(上石神井駅)への受験を意識するようになりました。
学院の合格発表当日、その結果報告に中学に行った際、当時私の天敵であった音楽教諭の「菅ポン」(故人)に「おまえが合格したのか!?」と皮肉を言われたことは今でも忘れられません。ともあれ、同じ中学から10数名が学院を受験しましたが、結果的には私だけが合格し、以後、「稲門」との長い付き合いが始まりました
【学院時代】
高校時代は、まさに春爛漫といった青春時代の始まりでした。小中学校同級の初恋の人とのデートも経験し、楽しい学生生活を送っていました。また、高校入学と同時に、空手部に入部し、大学の空手部にも週1日ほど通い、過酷な合同稽古にも耐えながら、その一方で、大学受験を意識しなくて良かったことから、様々なアルバイトを経験しました。
そんなある日、我が家に突然嵐が吹き荒れました。父親が経営していたペンキ屋が倒産したのです。家族は私だけを都内に残し、身を潜めることとなりました。高校2年の夏でしたが、3畳一間での初めての一人暮らしは、今思えば「挫折」という大変貴重な人生経験でもありました。
その年の秋に行われた体育祭で、騎馬戦の馬に乗り颯爽と敵陣に乗り込んだ際、見事に地面に落とされ左手首を骨折し、2か月ほどは銭湯にも行かず、頭は台所で水洗い、身体は片手で拭いての生活を強いられました。食事は、学食での昼食以外、近くの蕎麦屋で大盛りライスをサービス価格(60円)で買い求め、食料品店で安い食材を調達していました。その頃最も悲しかった出来事は、好物の「白菜のお新香」(30円)を2日目に食べようとした際、腐っていたことでした。涙が止めどなくこぼれ落ちてきたこの日の出来事は、今でも心に鮮明に残っています。
そんな中、遅刻気味だった私のアパートに、同級生何人かが毎日のように上井草駅で途中下車して迎えに来てくれました。当時、迎えに来てくれた級友とは、それ以来50数年付き合っており、「良き飲み仲間」でもあります。まさに、「稲門」の絆の強さでは無いでしょうか?口には出しませんが、彼らには今でも大変感謝しています。
翌年、家族が東京に戻ると、身を潜めての借家住まいが始まりましたが、高校時代の担任が「奨学金」の手続きをとってくれたことから、高校時代に引き続き、大学時代もその恩恵にあずかり、実質学費ゼロで早稲田大学を卒業することが出来ました。
【大学時代】
大学時代も、ほぼ毎日、バイトが主流の学生生活でした。朝は、大隈会館内にあった学食で調理補助、昼は近隣の中高等学校へのご飯・カレー等の配達に加え、大学の先生たち、警備に来ていた機動隊、地元の公安警察が乗っていた通称「青バン」、学生会館の「住人」への弁当配達等、ほぼ授業に出席すること無く、汗まみれのバイト生活を送っていました。
大学は4年で卒業しましたが、学園闘争の影響で、在学中、学年末試験なるものを受けたのは、大学3年の時だけでした。学費ゼロで、アルバイトに専念しただけで「学士」の資格を頂きましたが、当然ながら卒業証書は成績表とともに大切に保管しています。
大学3年の終わり、当時、大隈会館の2階にあった就職課に弁当配達に行った際、目に入ったのが、警視庁警察官の採用ポスターでした。採用試験の案内は、別のアルバイト先の近くの交番でもらい、何のためらいも無く申込書を提出し受験しました。
【大学卒業後】
昭和50年春、警視庁警察学校(当時中野)の門をくぐり、半年間の学生生活後、38年間公務員生活を送りましたが、その間、交番勤務はもとより、警察署勤務7回、本部にある8部門のうち6部門を流れ歩きました。また、警視庁のみならず、警察庁、外務省(在米日本国大使館)、東京都庁等での勤務が約12年と異例の経験をさせて頂き、60歳で退職、現在も民間企業で働かせて頂いておりますが、その間に「稲門」を通じて知り合った先輩・後輩は数知れません。来年以降、勤務日数が減少するので、「志木稲門会」を通じて、再びその輪を更に広めていきたいと考えている昨今です。