第29回:備前 宏之さん
私の稲門時代
1975年(昭和50年)
政経学部経済学科卒業
私が政経・経済に在籍していたのは、’71年~’75年までの四年間でした。
当時、学生運動は下火になりつつありましたが、それでも学費値上げ反対等の紛争で期末試験は四年間のうち一回だけ、後の三回はレポート提出に置き換わるといった状況でした。
私は、思想的には、そんな学生運動を横目でみる典型的なノンポリで、学生時代は社会に出るまでのモラトリアム期間だというちょっと斜に構えた意識があったような気がします。組織に属するのは得意でなく、かといって夢中になる何かを持っているではなく、ただ何となく毎日を過ごしていました。
そうはいっても高い授業料を親に出してもらっている手前、元は取らねばという気持ちはどこかにあり、授業にはできるだけ出席、必修ではなかったゼミにも参加しようと思っていました。そのゼミですが、入るのがむづかしそうな所謂学部の看板ゼミなどは端から受けるつもりもなく、色々物色していた時、ゼミへの受験条件が「麻雀ができること」というただそれだけのゼミがありました。麻雀が強いか弱いか、好きか嫌いか、点数が数えられるか否か等、一切関係なく、ただ牌が並べられ、あがり方を知っていればOKという条件でした。
それでも定員の二十名を超える応募者があったほどでしたから、私と同じような学生が結構いるものだと心強い気持ちになったことを覚えています。
ゼミを受けるに際し多分先生による面接もあったのでしょうが、それについては全く覚えていません。ゼミでは度々ゼミ合宿と称して何泊かで伊豆や信州に出かけましたが、勉強するのは朝の短い時間で、後は麻雀と夏は海水浴、冬はスキー。その「ゆるさ」が気にいっていました。四年生ではゼミ論の提出が必要でしたが、学生時代何かひとつぐらい形になるものを残そうとめずらしく真剣に取り組みました。題材は経済にちょっとでも関係すればOKという、これまた「ゆるい」縛りでした ケインズを深読みする者(グループ)もあれば、金融論を展開する者(グループ)もあるという次第です。
私は、乗り物が好きで数学もマアマア嫌いではないといった単純な理由からテーマを「東京―大阪間の鉄道&航空旅客に関する需要分析」ということにしてゼミ論作成をスタートさせました。手法は計量経済学の基礎である最小二乗法を使った回帰分析でした。要は、東京―大阪間の新幹線と飛行機の過去の乗客統計から需要関数に使用する方程式を導き出し、将来の旅客需要を予測するというものです。当時新幹線は岡山までしか開業していない時代でした(博多延伸は’75年3月)。統計をベースにした研究でしたから当然手計算では無理で、コンピューターの力を借りねばなりません。しかし当時学部には学生が使えるコンピューターなどなく、理工学部にあるIBMのマシンを使わせてもらうことになっていました。今では死語でしょうがフォートランでした。そのためプログラム一行を一枚のパンチカードに起こしそれを理工学部に送って処理してもらい、翌日結果を受け取るという作業の繰り返しでした。
一回の処理にカードが数十枚から百枚単位になります。時間をかけて何十枚、何百枚のカードをパンチしても、そのうち一枚でもミスパンチしていればエラーとなりたった一枚エラーメッセージのシートが返却されてきた時の情けなさは何とも言いようがありませんでした。
そうして、約半年間結構真剣に取り組み、ようやく百枚のゼミ論が完成しました後になって、先生から小野梓賞に推薦したことを聞きましたが、そこまででした。このゼミ論は一冊の冊子となって今でも手許にありますが、この度もう一度読み直してみて、本当に自分が書いたのだろうかと、全くついていけない自分を見出すのでした。人間の頭は五十年も経つと随分退化するものですね。