第12回:梅木 秀喜さん
私の稲門時代
昭和45年4月法学部入学
49年3月卒業
私は昭和25年10月、熊本県山鹿市で生まれ育ちました。鉄道も走っていない農業と温泉の町です。古代の装飾古墳や横穴古墳が多数あり、斜面を滑り台代わりに遊んでいました。県立鹿本高校は1学年15組あり、マンモス校でした。生徒会の文化部長と新聞部の部長を担っていました。まずまず楽しい高校時代だったと思います。一つ思い出に残っているのは、小・中と長髪(父が刈ってくれていました。坊主頭もそうです)だったのが高校では丸坊主でした。全国の高校紛争とはかなり違いますが、生徒会として、学校側と何度も長髪協議会を持ちました。結局卒業の翌年から長髪が認められました。
さて受験について現役は5教科で挑みましたが、数学がだめだとはっきり自覚し、翌年は英・国・社ならと私立に絞り何とか早稲田の法学部に入学することが出来ました。
私の稲門時代を書くにあたって特にこれと言っていいものはなく、思いつくままに、記憶に残っているままにエピーソードを書こうと思います。
① 大学紛争➡ 45年4月入学すると、立て看板だらけの構内にびっくりしました。ずーと見ることになりました。よく見かけたのが三島由紀夫の組織した楯の会のメンバーが軍服にサーベルを帯びて闊歩している姿でした。誰もがそのうち何か起きるぞと思っていました。45年11月25日市谷駐屯地で楯の会メンバー共々憲法改正のアジ演説を行い、三島は割腹自殺をしました。記憶では校内でも号外が配られたように記憶しています。私にとって衝撃の事件でした。作品「金閣寺」は読んでいました。
もう一つの強い記憶は、憲法の講義を2階の大教室で受けていた時、革マルと思われる集団が、投石を始め、ガラス窓が割られました。教授が講義中止と大声を出し、我々は急ぎ1階ラウンジに向かうべく狭い階段を駆け下りていたその時です、私の隣にいた学生に火炎瓶が飛んできました。半袖シャツの胸元に当たり、ぼーっと燃え、血がチリチリと流れました。慌てて近くにいた学生達に電話・電話と叫んだのを覚えています。しばらくすると救急車が来て運ばれて行きました。どこの誰とも知りません、自分ではなかったというだけです。何で講義を受けている学生を襲うねん!!
② アルバイト、家庭教師➡日本一周一人旅と大いに関係ありますが、休講やストライキで講義のない日はバイトです。兜町の証券会社、新宿伊勢丹などは楽で、長く務めたように思います。そんなある時クラスの友人から、男の子の家庭教師をやってくれないかと依頼がありました。中学受験と言う事でした。責任あるし算数自信ないよと言いましたが、いいからいいからと紹介されました。夕食付でした。彼の親戚筋だったのかも知れません。どの程度のレベルの中学だったかは覚えていませんが、明大中野中学を目指すと言う事でした。社・国・数はもちろんですが多くの教科を教えたような気がします。ご主人は証券会社の幹部のようで、白のクラウンで早く帰って来られた日は、一杯飲みましょうと、高級ウイスキーを時々ご相伴に預かりました。6~7ヶ月教えたでしょうか、最後に訪問した時に、無事受かりましたとお礼の言葉と紺のブレザーをプレゼントされました。このブレザーは後程写真とともに登場します。
③ 高松塚古墳とおしゃれと➡1972年3月、奈良明日香村で高松塚古墳の壁画が見つかり、色彩豊かな女子群像は世間の注目を集めました。私は同志社に行っている友人の下宿に転がり込み、高松塚を訪ねました。古墳は既に埋め戻されていましたが、いまだにその興奮は覚えています。故郷のチブサン古墳(絵柄が女性の乳房似)の装飾画を思い出していました。同じようなものが存在していたのです。その時着て行ったのがブレザー姿の私です。ネクタイまでしています。人生初のおしゃれです。定年後の私の趣味は古代史研究と古墳や遺跡を見て歩くことです。
④ 日本一周を目指して➡部活については旅をしたいと、確か旅の会に入りましたが、馴染めない事があり、半年余りで足が遠のきました。ただ、ユースホステルや公立の大学の寮は安価・50円~100円で泊まれることを知り、役に立ちました。父が国鉄務めだったので、家族パスが役に立ちました。普通運賃が3割から5割引もありました。父が節せと申請してくれました。ありがたい事でした。ここから一人旅が始まります。
夏休みで山陰地方の旅に出かけ、島根大学の寮に泊まりました。夏休みでがらんとしていましたが、寮生の一人から自分がバイトしている旅館の庭園ビヤガーデンに来ませんかと、もう一人の旅の学生と誘いを受けました。それは立派な芝生のビヤガーデンで、宍道湖の嫁ヶ島からは花火が打ちあがっていました。寮生からは最初のビール一杯だけ頼めば、後はどんどん運んで来るからと、それはそれはご馳走になりました。後年・3年前ですが、松江出身の友人の案内で島根大学の寮を尋ねました。ちゃんとありましたが、立派な鉄筋の寮に代わっていました。学生と話も出来ました。
秋の頃か、石川県の能登半島を訪れました。狼煙でバスを降りて、さてどうするかとザックを担ぎ歩き始めると、築地塀の立派なお寺が目に入りました。前にもお寺に泊めてもらったことがあり、頼んでみようと声をかけると、若い住職が出てこられました。どこの大学ですかと尋ねられ、早稲田ですと答えると、僕も早稲田ですよと、快く泊めてくれました。こんな偶然もあるのですね。でもよくこんな事をしていたなと今は唖然とします。今も立派なお寺として続いている事でしょう。
沖縄が返還されたのは昭和47年(1972年)5月15日の事でした。私が沖縄を訪れたのはその直後の8月17日からでした。沖縄の現状と米軍による事件や犯罪の事を調べたいと思ったからです。沖縄タイムスの資料室を訪ね戦後の新聞記事を見せてもらいました。やはり一番目についたのは昭和45年12月発生のコザ事件でした。現場のコザ(現沖縄市)にも出かけ、県民の不満を感じ取ることが出来ました。
ユースホステルに泊まりながら沖縄の観光も楽しみました。車は右側通行でした。
⑤ クラスの仲間と旅と日本一周と➡旅の会を離れるとクラス(独語)の仲間と親しくなり、よく飲みよく遊びました。早慶戦では声が枯れるほど歌ったものです。学費値上げのストライキでは議論がよく起こりました。後期の試験が終わるとその日に、5~6人で苗場のスキー場に2年連続で行きました。仲間の父上が郵政省の幹部との事で、かんぽの宿を定宿としました。私は初めて見る雪とスキーで散々苦労しましたが、ボーゲンとクリスチャニアを覚え少しは滑れるようになりました。一度頑丈な男性とぶつかり危ない思いもしました。
九州一周は高校時代の仲間4名で、友人の車を使いテントを張りながら一周しました。宮崎の友人宅に泊まった時、日焼けで背中を火傷した私に、カーマインローションを友人のお母さんが塗ってくれました。ありがたい事でした。
四国一周は春三月、一人旅でテントも担いで回りました。室戸岬ではテントを張ると犬の鳴き声が聞こえ、これは怖いと近くの民宿へ逃げ込んだ覚えがあります。
北海道へ渡ったのは私が22歳の誕生日10月31日でした。「津軽海峡冬景色」のようには青森駅の雪は降っていませんでしたが、どんよりとした寒々しい日でした。青森の古びた街並みの、とある果物屋で、りんごを木箱で買いました。人生初の親孝行でしょうか、実家の熊本に送りました。北海道はやはりユースを使い、函館、札幌を中心に、映画でおなじみの「網走刑務所」の門を見ました。函館山では北島三郎の「函館の女」を口ずさみながら、百万ドルの夜景を眺めました。
47都道府県全国一周の旅は数県を回ることが出来ませんでした。はたと気が付いたのは、2018年、高野山と熊野古道を歩いた時、和歌山県は初めて来たと気づいたのです。この時全国一周の旅が完成したのです。長い時間が掛かりましたが達成しました。