第3回:鳥越先生
私の稲門時代
昭和20年代
早稲田大学第一文学部哲学科心理学専修に入学した私は、もとは理系志望であった。
鳥越先生略歴
長崎県生まれ。 早稲田大学文学部卒、同大学院修了。 早大教授を務め、1992年、『元禄歌舞伎攷』で芸術選奨文部大臣賞受賞。 1997年、紫綬褒章受章。 1999年、定年退職。 近松門左衛門の浄瑠璃を中心に、『梅若実日記』の編纂など、能、歌舞伎等伝統演劇の研究を行う。 演劇博物館館長時代は同博物館の現代的運営に尽力する。歌舞伎学会初代会長も務めた。 佐渡の猿八に鳥越文庫がある。所蔵書を佐渡市に寄贈して出来た文庫で誰でも自由に閲覧できる空間がある。 所蔵書は近世文学のみならず多方面にわたる。 1962年にドナルド・キーンの推薦でケンブリッジ大学で教えるために英国に渡ったとき、「大英博物館にえたいの知れない古い本がある。みてほしい」と現地の研究者に頼まれ、日本では現存しない浄瑠璃本「越後国柏崎 弘知法印御伝記」を発見した。 同書は貞享2年(1685年)ごろ上演された古浄瑠璃の本で、ケンペルが日本から持ち出したとされる。 1928年 長崎県生れ 1955年 早稲田大学文学部演劇科卒業。 1958年 同大学院修士課程修了1969年 同大学文学部助教授1974年 同大学教授、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長1987年 歌舞伎学会初代会長に就任 1992年『元禄歌舞伎攷』で芸術選奨文部大臣賞受賞 1997年 紫綬褒章受章 *『ウィキペディア日本語版』,(2018年6月9日取得,
病弱な私に、周囲の者たちが理系に進んだら毎日学校へ行かねばならないので体が持たない、文系へ行けというので、それなら心理学が理系に近かろうと選んだ次第。
文学部在学中一番楽しかった授業は田辺尚雄先生の「音楽史」。
持参されたレコードを手回しの蓄音機で聴かせながら、西洋音楽の話。そのころはここで聴いた演奏家が来日する時期だったので、音楽会にはよく行った。芝居や寄席にも通った。
同じ中学出身の英文科の友人と、第三ゴ学の時間と称して碁会所へも行くし、彼が麻雀好きだったので誘われて雀荘に行ったこともある。
心理学の勉強はあまりしなかった。
心理学の授業に出ると、よく聞かされる言葉が「適応」だった。
これからはすべてに適応できる人格が望まれるなどと。
私はこれに反発し、演劇専修に移る覚悟をした。
どろどろした歌舞伎や浄瑠璃の勉強が向いていると思ったのだ。
転専修の合否は主任教授の面接だけで決まる。演劇博物館長も兼任されていた河竹繁俊先生の面接を受けた。
演劇科に移って何をやるのだとの問いに、歌舞伎の研究がしたいと言った。先生は今ごろ歌舞伎を研究するのは馬鹿だとおっしゃった。
歌舞伎作者の嗣子で当代歌舞伎研究の第一人者であられた先生のその言葉を聞いて、とまどったが馬鹿の一念でやりますと答えた。
受け入れて下さった。
その時、部活の歌舞伎研究会には入ってはいけないと釘を刺された。
彼ら同好者と一緒になってはいけないと。
心理学時代の遊びはすっぱりと止めた。
先生方には鍛えられた。
一生懸命努力し、勉強の面白さがわかりかけたので大学院に進むことにした。
心理学のころは専ら中学以来の友人と遊んでいたし、音楽会や芝居へ行くときは一人だった。
演劇科へ入っても当時は専修別に入学したので、途中からではクラスに馴染めなかった。
恩師郡司正勝先生をお迎えして、学年・学部を越えての勉強会を続けたが、参加者は五人前後でしかなかった。
そんなわけで、学生時代の友人は非常に少ない。
自分で思うには、人付き合いの悪いかわいげのない学生だった。
以上、昭和二十年代のことである。