第24回:柴田 郁夫さん
私の稲門時代
1981年(昭和56年)
理工学部大学院卒
上石神井の高等学院から持ち上がりで大学に入りましたが、手続き上は学部の変更といった扱いで、高校のときから大学とほぼ同様の入学金と授業料を大学に支払っていました。確か高校入学時に全国で一番負担額が大きい学校だったと記憶しています。両親には経済的な負担を掛けさせてしまったのに、とくにその事を言われたこともなく、いま思い返せば大変ありがたい事だったなと思っております。
といった訳で、私の稲門時代は高校の入学時からで、学部卒業後は修士課程にも行ったので計9年間も早稲田に居たことになります。
高校の時には、大学でも教鞭をとられていた先生方が何人かおられたと記憶していますが、やはり一番印象深いのは高校3年間を通して担任をして頂いたT先生です。
T先生は、現代国語の先生で、詩人でもありました。人間を生理的、心理的、社会的など総合的に見る、といった視点で作られた小説(戦後作家の作品)などの話をされ、そうした影響もあり、私は当時言われ出していた「学際的」といった言葉にも共感を覚えるようになります。
領域を越えて総合的に物事を捉えよう、といった意味が「学際」ですが、それが私が理工学部を進学先として選ぶきっかけにもなりました。文学や絵画など芸術への関心が高く、理系ではなく文系の頭であった私が、一般入試ではとても入れない理工学に進学したのは、学際的に物事を見るようになりたい、という気持ちからでした。
とはいいつつ、理工系の中でも最も文系的な要素の強い建築学科を選んだのは、さすがに数学や物理科では付いていけない、と思ったからでした。
建築には、構造計算や設備といった理系分野から、芸術的な要素を含んでデザイン(設計)分野、都市計画など社会的な要素が多分に含まれる分野、さらに建築歴史といった分野まで幅広くあります。実際私は住宅設計や住居の歴史への関心が高まり、修士では建築史研究室に進みました。そこでは考古学を勉強し古文書も読むといったほぼ文系の学問をするようになります。日本における床の間の発生、なんていう研究に手を染めていました。
その後、そうした研究の流れもあり「台所道具の歴史」といった書籍も出していた文系シンクタンク(工業デザイン事務所の一部門)に就職して、将来のオートバイのデザインはどうなるか、といったマーケティングの分野で仕事をするようになるですが、それからも「学際」ではないですが、31歳の時に独立して、様々な仕事に携わってきています。
今から30数年前に柳瀬川駅前に「志木サテライトオフィス」を作った際は、まだワークライフバランスといった言葉もないインターネットさえ普及もしていない時代でしたが、職住近接オフィスを世に問い、これはのちに日本におけるテレワーク発祥の地、と言われるようになります。
それも今思い起こせば、早稲田でやっていた住まいの歴史つまり生活史の現代的な展開だったのかもしれません。
いまは、「働くを輝くに」をモットーとして、キャリアコンサルティング(※)の普及に力を入れていますが、これも働く=生きる、といった観点でとらえれば、生活史(住居史)の一環と言えなくもありません。
建築学科の出身なのに、同級生たちとはかなり違った人生を歩んできていますが、改めて思い返してみれば、稲門時代に学び、身に付けたスタンスを発展させて今に至っているとも言えるような気がしてきました。
国立競技場の設計を始めとして現代を代表する建築家となった隈研吾氏は建築学徒としては1年先輩のほぼ同世代人です。彼は東大でしたが、早稲田との交流があり、彼は当時から注目されていた学生でした。同年代の日本女子大住居学科の学生だった妹島和世さんは、その後、金沢21世紀美術館などで押しも押されもしない女流建築家として名を馳せました。
私にとっては、建築鑑賞は、趣味の世界の話となっていますが、最近では神社巡りが楽しみでもあります。出雲大社と鹿島神宮の建築上の共通点の話などは、古事記で描かれた神話の世界に新しい光を当てる話ともなります。建築や住宅は、単に建物や住居といった物理的存在であるだけでなく、文化的・芸術的・社会的そして人間の心理的な存在でもあります。
稲門時代に進路を選ばしめた「学際」の発想はいまも私のなかで根付いている、ということに気づいています。
※キャリアコンサルティング:仕事の悩み事を面談を通じて解消していく方法で国家資格キャリアコンサルタントが行う。志木サテライトオフィスでは厚労大臣認定のキャリアコンサルタント養成講習を行っている。