第25回:黒沢 資到さん
私の稲門時代
1987年(昭和62年)
政経学部経済学科卒業
【早稲田への道】
子供の頃、私は早稲田が嫌いでした。今も志木稲門会のウェイト7割は志木で3割が早稲田の気持ちです。でも今、思うと早稲田入学は予定調和だった気もします。最初に早稲田を意識したのは、中2の時にクラスメートと自主上映された「鉄道員」を観に早稲田祭に行った時のこと。雑然とした雰囲気に眩暈を覚えつつ、何となく「将来はこの大学に入学する」予感がしました。その時に構内で購入した映画「星にのばされたザイル」のポスターが長らく部屋を飾っていたことも逆転好印象の要因だったかもしれません。
その後、志木っ子にありがちですが、慶応志木を受験→残念!不合格。
当時は浦和は何となくガリ勉ぽい気もして敬遠。(やはり浦和は全国区の名門です!教育実習でいらしていた長沼明さんには「絶対、浦和!」ってアドバイスされてたんですが・・・。後悔しています。驚くことに海城・城北はまだ公立のすべり止めでした)・・・という訳で下り電車に乗って川越まで通学しておりました。弱いのに「部活命」の田舎の男子校で浪人→早稲田が標準コース。しっかりコースに乗って文三に落ちて、早稲田に入学しました。
【入学後】
当時の政経学部は1クラス40人で女子が2人!高校時代と変わりません。「自由な大学」といっても既に高校が似たような雰囲気だったので正直、新鮮味はなかったです。川越高校からも100人くらい進学していたので、学内のそこいらに同級生がいたことも新鮮味を感じなかった理由かもしれません。
ただ、さすが全国区の大学!語学クラスには、旭川東かから那覇高校までいて、その多様性には驚きました。サークルは、登山は高校でやり切った感があったので、友人に誘われるままにテニス2つ(オルレアン、ギャルソン・ゼ・フィーユ)とサッカー(早大蹴球同好会)へ。後者のテニス・サークルは、新設で幹事長が世耕弘成氏でした。当時から弁舌爽やかで、頭も切れて「世の中にはすごい人がいるな・・・」と同じ歳ながら尊敬していました。
3年からはゼミが開始。政経は3割がゼミに入れない時代でしたが、社会保障論の安藤哲吉先生のゼミに入れていただき、さらに副幹事長で結構、可愛がっていただきました。ある時先生に「学生読書室って結構、混んでいて空き席がない時があるんですよね・・・」と話したところ先生が大学にいらっしゃらない火、木、金は研究室を使って良いとのこと。今だから時効ですが、先生の研究室でお昼寝して、缶ビール飲んでまったりしていました。ごめんなさい!安藤先生には仲人もやっていただき、亡くなられた時には本当に悲しかったです。先生の後、社会保障論ゼミを継いだのが清水秀彦先生で卒業生にはフリーアナの羽鳥慎一氏がいます。頑張れバード君!
【卒業後】
30台半ばまでは、結婚式やゼミのOB会などで同級生と会う機会も定期的にありました。また、野球やラグビー好きの友人が周りにいて毎回、声をかけてくれるので何やかんやで、集まって「都の西北」を歌っていたので、私の事を「愛校心の権化」と誤解している人も多々おります。その他諸々の友人とも卒業後25年目の「ホームカムイングDAY」で再会。Face book等SNSの力もあり、結構な人数のかたがたとKeep in Touchの関係が維持できているのは、この歳になって嬉しい限りです。
【最後に】
早稲田で得したことは何もありません。むしろ某大OB辺りが最初から喧嘩腰で足引っ張てきたりで損したことのほうが多いです。でも大学って損得じゃないから。就職が良いから慶応、面倒見が良いから三田会ではなんか寂しい気もします。「たかが早稲田、されど早稲田」。海外では結構、有名だったりします。村上春樹と小保方晴子さんがノーベル賞とったら、大ブレークしたかもしれませんね♪
文句を言いつつ、それでも本当は早稲田が大好き!これも天邪鬼な私なりの予定調和なんでしょう。