第23回:村上 徹さん
私の稲門時代
1984年(昭和59年)法学部卒
1960年(昭和35年)広島県竹原市に生まれた私は、父の仕事の関係で小学校の5年から高校卒業まで山口県下関市で育ちました。高校時代まったく勉強に身が入らず大学受験した私は当然のように受験したすべての大学に不合格となりました。失意の私は、浪人生になりましたが代々木ゼミナールで一念発起したお蔭で1980年(昭和55年)なんとか何校かの大学に合格することができました。
田舎者の私にとり早稲田大学は本当にあこがれの大学であり 実はそれまで中・高と剣道部に所属していましたが、折角法学部に入ったのだから法曹の道をめざそうと 入学早々8号館1階で勧誘された法学部サークルの「刑事法研究会」にはいりました。(そこまでは一瞬勉学に燃えていました)
刑事法研究会は当時総長であられた 西原春夫先生が会長でその門下の大学院生の方々に指導してもらい、ゼミ形式で週1・2度勉強会をする真面目なサークルでした。
しかし まともに勉強しなかった私は 感覚的・感情的な発言しかできず 難しい理論は結局わからないまま過ごし 元気で活躍するのは合宿の打ち上げとコンパの時だけとういう情けない部員でした
それでも 大学2年の秋 大隈講堂で行った「模擬裁判」に熱血漢の中学校教師の役で大隈講堂の舞台立てたことは良き思い出です。
当時の法学部は 語学以外はほぼ出席をとらない中 ほぼ毎日サークルの部室のあった 一号館(本部)の地下1階の部屋で仲間とだべっているか正門近くにあった「ジャスミン」という雀荘にいることが ほとんどで たまに出る法律の授業はまったく理解不能で特に、いまでも鮮明に覚えているのは、当時「天才鎌田」と言われていた 前総長の鎌田薫先生の民法物権法の授業は難解でとても日本語とは思えないほどでした。
また鎌田先生は試験の採点でも厳しいことで有名で学生に恐れられていましたが、私は期末試験においてみごと山があたり何とか「可」を獲得する事ができました。数年前 ある会合で先生にお会いして「その節は可を頂きましてありがとうございました」と言ったところ 「そうでしたか」と、このOBは一体なにが言いたいのだろうと怪訝そうな顔をされて笑っておられました。
そういう訳で学問では本当にいい加減な学生生活でしたが、良き多くの友と出会い、語らい、遊びかついろんな分野の本をよんだり 映画・演劇をみたりし充実した4年間を過ごしました。
とにかく 当時の早稲田大学は学生の自主性・主体性に任せる学校でしたので自由に使える時間が実に豊富にありました。勉強をする人もしない人もとにかく真面目にものを考える人が多く そうした環境下で学生生活を過ごせたことは その後の人生に本当に役に立っています。