第22会:岡野 勝さん
私の稲門時代
S54 理工学部応用化学科卒
私は埼玉県の公立男子校卒業後、1500名中約30名しか女学生のいない理工学部に入学したので、男の園での青春を送ることに不安を感じ、サークルは本学と決め「野草を食べる会・なべの会」に入りました。会員は150名おり25人6班制で活動し、3割強が女性でした。1・2年時は毎日曜日、西武線沿線等に10名程度で出かけ野草調理や散策をし、夜は使用したなべ等を担いで新宿に飲みに行き超高層ビル内の「あしべぱーく」にも小汚いかっこで平気で通いました。新宿から越谷の自宅まで2時間弱かかったので、野方や沼袋の同級生によく泊めてもらったものです。夜行で野辺山等に行くときなどは電車内でトランプをし、負けた者が罰ゲームとしてコンバット(ほふく前進)や蝉(ポールに捕まりミーンミーンと鳴く)などをして他の乗客の笑いを誘っておりました。
早慶戦では、「雄弁会」、「東洋思想研究会」等と共に「なべの会」も神宮球場に1週間前から場所取りで、テントを張り交代で寝泊まりし、夜には一升瓶を回し飲みし、急性アルコール中毒により救急車で運ばれた者もおり、疲労でまともに試合を観戦できなかった思い出があります。明治や江川がいた法政に7期連続で苦杯を呑まされ続けましたが、4年生の秋についに優勝することが出来、球場ダッグアウト上で「紺碧の空」「都の西北」を4年生のみで肩を組み声が枯れるほど大声で歌い続け、提灯行列で新宿まで行進できたのは至上の喜びでした。
3年生になると越谷市の成人式代表挨拶をすることとなり、その関係で地元の同級生と行動を共にすることが多くなり、車での旅行やスキーに熱中し、裏磐梯のペンションにて住み込みのバイトを長期間やりました。屋根裏部屋に寝泊まりし、女性客の送迎やベットメイク、夜の飲み会で占いやギター演奏等での盛り上げ役を担当しました。時間の許す限りスキーを楽しみ、ペンションヴィレッジ主催のスキー大会などにも参加しました。
4年生では卒論のみでしたので、そのための実験以外は時間に余裕があったので塾と家庭教師を掛け持ちし、会社員の初任給より多くの収入を得ておりリッチな生活を過ごしました。大学院に進学し研究を続ける道もありましたが、性格的に研究室に閉じこもるのは不向きであると判断し製薬メーカーの営業に進みました。
東大一直線であった私が、いくつかのハプニングにより早稲田に入学となったのは、今思えば運命であり、そこで多くの人に出会い、数多くのことを学びました。人に恵まれ、深みのある学生生活を送れたことに対し感謝いたしております。
早稲田で良かった!