第26回:山本 美穂子さん
私の稲門時代
1988年(昭和63年)
第一文学部卒業
子供の頃に住んでいた新潟県で高校受験に失敗した私は、滑り止めの県立高校に進んで大学受験を目指しました。3年後、第一志望の早稲田に入学したときは雪辱を果たした思いで、それはもう有頂天だったものです。
その割に学生生活は、始まってみれば、とても地味なものでした。住んでいたのは西武新宿線東伏見駅にほど近い2階建アパート。毎日第二外国語で取ったフランス語の予習に追われて、電車でアパートと高田馬場を往復する日々でした。
当時、JJというファッション誌が女子大生のバイブルで、青学やフェリスの女子学生が誌面を賑わしていたものですが、私の毎日はそれとはまったくかけ離れたものでした。それでも、そうした状況を何となく誇らしく思う気持ちもあったような気がします。
そんな地味で単調な4年間を振り返って、今も思い出すのは、2年生のとき友人に誘われて参加した本庄早稲田100キロハイクです。参加するつもりなどサラサラなかったのですが、友人に「早稲田に入ったからには、在学中に一度は出ようよ」と言われ、渋々参加したのです。参加費は確か2000〜2500円ほどだったと記憶しています。
当時から、コスプレのような奇抜な衣装で参加する人が一部いて、テレビ局のクルーが取材に来たりしていました。
初日は何とか歩いたものの、夜中にはもう食欲も失せるほど疲労困憊、2日目は筋肉痛と足の皮剥けに襲われ地獄のようでした。
やがてヨレヨレの体で池袋を過ぎ、高田馬場まで来たとき、友人が「ああ、シチズンが見える…」としみじみ呟いたのを鮮明に覚えています。シチズンというのは、当時高田馬場にあったボウリング場で、数年前に閉館した娯楽施設です。そして山手線のガードをくぐり見慣れたBIG BOXが目に飛び込んできて、どれほど神々しく見えたことか。。。
こうして無事、大隈庭園にゴールしました。
西原総長が挨拶して「みなさん筋肉痛だろうと思いますが、年を取ると筋肉痛は遅れて出るものです。みなさんが今、筋肉痛なのは、若い証拠です!」と言うのを聴いて、学生たちはひそひそと「いや、これ昨日の分の筋肉痛だし」と呟く有り様でした。
この一昼夜の行軍で私の足の指は9本、爪が剥がれました。以来、靴と靴下の重要性を肝に銘じています。
100キロハイクに参加したのはこの一度だけなのですが、今でもちょっと長い距離を歩くときには疲労度の物差しになっています。10キロ歩くなら、「ああ、キツさはあの時の10分の1くらいかな?」とか。。。私の地味な学生時代を彩る貴重な経験でした。