第28回:小栗 正之さん
私の稲門時代
1969年(昭和44年)
理工学部数学科卒業
早稲田大学に入学したのは昭和40年(1965)、理工学部・数学科であった。
場所は早稲田の杜から少し離れ新設されたばかりの大久保(西早稲田)校舎。
新設とはいえコンクリートがむき出しの質素なビルが大小8棟ほど並んでいた。
正門が面する明治通りには渋谷~池袋間を結ぶトロリーバスが走っていた。
クラスは第2外国語別の10組(ロシア語):機械・電気・建築・化学・通信・資源物理・数学などを専攻するメンバー約60人ほどの構成であった。
クラス担任は英語の高杉信先生、先生は1~2年後には専攻別に分かれていく。メンバーの横のつながりを強化しようとクラス会(一等会:1年10組の意)の発足を呼びかけほぼ全員がこれに賛同した。一言で言えば安い飲み会の開催である。
この年は女優・吉永小百合が第2文学部に入学した時で夕方になると幾度も数名で戸山校舎に赴いたが彼女はめったに登校せず会えることも無かった。
高杉先生は茶目っ気もある人で彼女のクラスの英語も担当していたから、彼女が珍しく出席した日に一計を案じ小さい短冊を出席者全員に配り氏名を書かせて回収し出席簿とした。狙いは勿論彼女の直筆を得るためである。
翌日の英語の授業の際、それを自慢そうに見せてくれたが綺麗に整った字体であった。
「一等会」について補足する。
1年の時は何度か開いた飲み会も2年目には早くも消滅してしまった。ところが卒業してから10年ほど経った頃、大川君という自営業を営むメンバーがいろいろ調べて他のメンバの消息をたどり名簿を作成して、忘年会開催を呼び掛けてくれたことで復活した。
復活1年目の忘年会には20名ほど集まり
●忘年会開催(12月第2週土曜日)
●場所は幹事に一任、等が決まり初代幹事は大川君が引き受けてくれた。現在は電子メール化されているが当時は「電話と往復はがき」しかなく大川君はそれをすべてやってくれた。誰もが認める復活の救世主である。
以後、この忘年会は40数年続いている。(コロナ禍でここ2年は中止)
様々な分野で活動している連中のワイワイガヤガヤ飲み会、2~3時間はあっという間に過ぎてしまう楽しい一刻である。(皆勤賞も10名以上、私もその一人)
名簿も電子メールのグループとなり今でも30名弱が登録されている。
鬼籍に入られたり音信不通となったメンバーもボチボチ出ているがまだまだ顕在アクセス頻度は低いが宛先エラーも発生していないから届いてはいるのだろう。
今年は開催出来るだろうか、出来たら何人位集まるか期待と不安の胸中である。
学生時代に戻る。
1~2年の頃は数学の勉強が面白かった。高校時代と比べより深く・より真実へと進化しているのが毎日のように実感出来た幸せな時期であった。
ところがが3年生になった頃、ある問題の証明を終えた時「今やったことは何か?単に与えられた問題を既存の手段を選択しながら辿って行く解法技術の取得でしかないか、創造性の欠片も感じられない。」との考えが頭をよぎり、その後急速に大きくなってそれまで描いていた大学院→研究者への道には全く興味を失ってしまった。恰好を付けて言えば自分の能力の限界を悟ったのである。
以後は形式的・表面的な勉強は続けながらもバイト・麻雀等にも手を出し平凡な学生生活を送って社会人となった。
社会人2年目のある日、三角関数の加法定理を失念しているのに気付いたがショックよりも妙な安堵感を覚えた。「自分もようやく社会人になれた。」と!!
関連会社を含む40年余のサラリーマン生活も結局は「指示待ち族」で終始した感がある。目の前にぶら下がった仕事には徹夜も辞さないが、暇になると居眠り。
事業の発展・組織の在り方・部下の育成などには興味がわかず、設計・開発・保守など現場で飛び回るのが仕事だと思っていた。こんなことが書けるのも定年を過ぎてやることが無くなり否応なしの暇ができて「あの時はああすれば良かった」とか「この時はこうすれば良かった」と追憶の中でいろいろと考えた結果である
(取り戻すことは不可能と分かっているから悩むことも悔しがることも無い。)
ただ、現役時代にこういう考えを少しでも持っていたらと思うことはある。
以上「私の稲門時代」とは程遠い内容で申し訳ありません。