第32回:井上 祥夫さん
私の稲門時代
昭和48年(1973年)商学部入学
昭和52年(1977年)卒業
<入学まで>
受験学部は政経学部・商学部・教育学部。一日置きの受験日程でした。社会科を地理で受験できたのが、この三学部でした。商学部と教育学部に合格することができました。
3月下旬に、箱根の旅館で入学前のオリエンテーションが実施されました。このような行事は商学部だけとのことでした。クラス単位での大広間での夕食会では各自にビールが提供されました。今では有り得ないでしょうが学校公認です。大人扱いにされたと感じたものでした。ちなみに女子学生はクラスには在籍ナシでした。



<入学して>
商学部の入学式は午後の開始でした。午前の部で「学生乱入」により、中止。丁度出かけようと準備をしていたところ、午後の部は中止決定したことを、ニュースで知ることになりました。
第二外国語はドイツ語です。高校の第二外国語でドイツ語の授業があったこともあり、ドイツ語ならば楽勝と思い選択しました。最初の頃は学友から教えを請われたりもしましたが、所詮der des dem denしか知らない程度のレベル。甘くみていた二年次には追加レポート提出により、漸く「可」をもらいました。
<雀荘 澤田屋>
安部球場の近くに澤田屋という雀荘がありました。料亭のような門をくぐります。何となく雰囲気の良いお気に入りの雀荘でした。
大学までは行ったものの、授業に出席することなく、澤田屋でお昼を食べ、夜も食べたこともありました。
何度か野球部のメンバー(後にプロ入りしたM選手・Y選手ら)にも遭遇したことがありました。
<映画 青春の門 出演?>
正門の近くで「映画に出ませんか?」と声をかけられた。「スカウト?」…聞けば、学生服を着て大学構内を行進して欲しいというエキストラの依頼です。
バンバンの「いちご白書をもう一度」の歌詞は「しゅうしょく~がきまって~、かみをき~ってきたとき~」とありますが、就職活動のために髪を切っていたのが、声がかかった要因です。
後日封切り後、映像の中の自分を探し求めましたが、見い出すことはできませんでした。
<卒論(ゼミ論文)>
2011年、ゼミの先生である交通経済学の杉山雅洋先生が定年退官されたとのこと。IM君が先生から全員の卒論を引き取り、送ってもらいました。
卒論は早稲田大学論文用紙に万年筆で記載し、金文字のタイトルをつけて製本されたものです。自分たちはゼミの一期生なのですが、卒業後34年間先生の研究室に保管いただいていたわけです。リビングのマガジンラックに封筒に入れたまま、そのうちにと思っている間に11年が経過していました。本稿を書くにあたり、読み返す丁度良い機会になりました。新幹線が博多まで延び、東北新幹線と上越新幹線の工事が始まり、大宮以南は何も決まっていないような時代でした。東海道山陽新幹線の現状から、建設中の東北・上越新幹線の将来を予測(夢想)するような内容です。当初「新線建設による経済的効果についての一考察」のようなタイトルを考えていましたが、先生のアドバイスにより「旅客輸送における新幹線の役割」になりました。交通経済学というにはおこがましい内容ですが、先生からは「ゼミの三大論文である」とのお褒めの言葉をいただきました。(一番とは言われなかったかな)