第33回:岡部 競さん
私の稲門時代
昭和53年(1978年)教育学部社会学科入学 昭和57年(1982年)卒業
昨秋、山口へ2泊3日の旅に出た。旅の目的は3つ。一つ目は萩・津和野(厳密には津和野は島根県だが)を巡ること。二つ目は旧友に合うこと。そして最後の三つ目はJR山口線の鍋倉駅を訪ねること。これら三つの目的の原点は大学時代にある。旅行は私の最大の趣味であるが、今回の旅行ほど大学時代の思い出と結びついている旅はない。
「るるぶ」と言えば、今は地域別旅行情報誌で、「るるぶ京都」「るるぶハワイ」など国内外を問わず発行され、書店の旅行コーナーの書架を占めている。しかし、その出発点は昭和48年発刊の月刊誌であったことは、今となっては知る人は少ないであろう。記憶は定かでないが、高校生の時に、鎌倉をメイン記事とする号を購入して読みふけった覚えがある。私の旅行好きの原点は「月刊誌るるぶ」にあった。「大学に入ったら、とにかく旅行に行きたい」という思いが強く、受験勉強の息抜きはまだ見ぬ旅先の風景であった。
昭和53年4月、私は教育学部社会学科地理歴史専修に入学した。同じクラスには、地方出身者も多く、そのなかの一人に萩出身の友人がいた。大学1年の夏休み。前半の1カ月、自動車工場でのアルバイトで旅行費用をため、群馬出身の友人を誘い、萩・津和野へ向かった。萩の友人宅は市内の旧家で、初めて五右衛門風呂を体験させてもらったことをいまでも鮮明に覚えている。都合十日を超える旅であったが、ひと晩だけ駅寝をしようと決めていた。何のことはない、駅でひと晩を過ごすだけであるが、どこの駅にするかは現地でロケハンをして決めることにしていた。目的地のひとつ津和野は山口線の駅であることから、山口線に乗って津和野へ移動する際に手頃な駅を探すことにした。そして見つけたのが鍋倉駅。無人駅で、ホームも線路も一面、板張りのベンチが備わった待合室も比較的新しく、トイレもある。この駅ならば終列車が出たあと翌朝まで気兼ねせずに寝られるはず。津和野の見学を終え、終列車に乗って鍋倉駅で降り、思い描いたとおりの一夜を過ごすことができた。
前年のNHK大河ドラマが大村益次郎を主人公とする「花神」であったこと。その年の11月に当時の国鉄が山口百恵の「いい日旅立ち」をキャンペーンソングとした大々的なイベントを開始する直前期でもあったことなどから、小京都と呼ばれ古い町並みが残る萩や津和野はアンノン族と呼ばれる若い女性達で溢れ返っていた。
以後4年間、私の大学の春・夏の長期休みは、前半にアルバイトで旅行資金をため、後半に旅行がパターンとなった。時に友人と、時にひとりで。行先は、中国・四国・九州と西日本が圧倒的に多かった。東京から大垣夜行と各駅停車を乗り継ぎ関西へ。そこから九州行きの夜行急行で西へと向かう。周遊券という所定の区間内は急行乗り放題という魔法の切符を手に旅して回る、私の大学時代の定番の旅であった。
大学生活の締めくくりは、卒業直前の春休みに行った、ヨーロッへのバックパッカーひとり旅。ひと月かけて、イギリス・オランダ・ドイツ・イタリア・スペイン・フランスを巡った。ドイツの田舎町で地元のおばさんに食堂はないかと聞いたところ、では我が家で食べて行けと言われご馳走になったこと。翌日、その家のご主人の車に乗せてもらい次の町へ移動したこと。若いからこそできた旅であった。
昨秋の萩・津和野の旅では、改めて時の流れを痛感した。あれほどアンノン族で溢れていた街は、秋の旅行シーズンとは思えないほど人が少なかった。友人は萩の旧宅を引き払っており、もはや五右衛門風呂のある風情ある屋敷はなくなっていた。友人との語り合いが40年の時を引き戻してはくれたが、鍋倉駅は、待合室とトイレは記憶のままの位置に残っていたものの、すっかり古ぼけてしまっており、私の大学時代は遠くへ去ってしまったことを突き付けてきたかのようであった。
内容入ります。
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私の稲門時代
昭和53年(1978年)教育学部社会学科入学昭和57年(1982年)卒業
昨秋、山口へ2泊3日の旅に出た。旅の目的は3つ。一つ目は萩・津和野(厳密には津和野は島根県だが)を巡ること。二つ目は旧友に合うこと。そして最後の三つ目はJR山口線の鍋倉駅を訪ねること。これら三つの目的の原点は大学時代にある。旅行は私の最大の趣味であるが、今回の旅行ほど大学時代の思い出と結びついている旅はない。
「るるぶ」と言えば、今は地域別旅行情報誌で、「るるぶ京都」「るるぶハワイ」など国内外を問わず発行され、書店の旅行コーナーの書架を占めている。しかし、その出発点は昭和48年発刊の月刊誌であったことは、今となっては知る人は少ないであろう。記憶は定かでないが、高校生の時に、鎌倉をメイン記事とする号を購入して読みふけった覚えがある。私の旅行好きの原点は「月刊誌るるぶ」にあった。「大学に入ったら、とにかく旅行に行きたい」という思いが強く、受験勉強の息抜きはまだ見ぬ旅先の風景であった。
昭和53年4月、私は教育学部社会学科地理歴史専修に入学した。同じクラスには、地方出身者も多く、そのなかの一人に萩出身の友人がいた。大学1年の夏休み。前半の1カ月、自動車工場でのアルバイトで旅行費用をため、群馬出身の友人を誘い、萩・津和野へ向かった。萩の友人宅は市内の旧家で、初めて五右衛門風呂を体験させてもらったことをいまでも鮮明に覚えている。都合十日を超える旅であったが、ひと晩だけ駅寝をしようと決めていた。何のことはない、駅でひと晩を過ごすだけであるが、どこの駅にするかは現地でロケハンをして決めることにしていた。目的地のひとつ津和野は山口線の駅であることから、山口線に乗って津和野へ移動する際に手頃な駅を探すことにした。そして見つけたのが鍋倉駅。無人駅で、ホームも線路も一面、板張りのベンチが備わった待合室も比較的新しく、トイレもある。この駅ならば終列車が出たあと翌朝まで気兼ねせずに寝られるはず。津和野の見学を終え、終列車に乗って鍋倉駅で降り、思い描いたとおりの一夜を過ごすことができた。
前年のNHK大河ドラマが大村益次郎を主人公とする「花神」であったこと。その年の11月に当時の国鉄が山口百恵の「いい日旅立ち」をキャンペーンソングとした大々的なイベントを開始する直前期でもあったことなどから、小京都と呼ばれ古い町並みが残る萩や津和野はアンノン族と呼ばれる若い女性達で溢れ返っていた。
以後4年間、私の大学の春・夏の長期休みは、前半にアルバイトで旅行資金をため、後半に旅行がパターンとなった。時に友人と、時にひとりで。行先は、中国・四国・九州と西日本が圧倒的に多かった。東京から大垣夜行と各駅停車を乗り継ぎ関西へ。そこから九州行きの夜行急行で西へと向かう。周遊券という所定の区間内は急行乗り放題という魔法の切符を手に旅して回る、私の大学時代の定番の旅であった。
大学生活の締めくくりは、卒業直前の春休みに行った、ヨーロッへのバックパッカーひとり旅。ひと月かけて、イギリス・オランダ・ドイツ・イタリア・スペイン・フランスを巡った。ドイツの田舎町で地元のおばさんに食堂はないかと聞いたところ、では我が家で食べて行けと言われご馳走になったこと。翌日、その家のご主人の車に乗せてもらい次の町へ移動したこと。若いからこそできた旅であった。
昨秋の萩・津和野の旅では、改めて時の流れを痛感した。あれほどアンノン族で溢れていた街は、秋の旅行シーズンとは思えないほど人が少なかった。友人は萩の旧宅を引き払っており、もはや五右衛門風呂のある風情ある屋敷はなくなっていた。友人との語り合いが40年の時を引き戻してはくれたが、鍋倉駅は、待合室とトイレは記憶のままの位置に残っていたものの、すっかり古ぼけてしまっており、私の大学時代は遠くへ去ってしまったことを突き付けてきたかのようであった。
内容入ります。