第7回:井上 善晴さん
私の稲門時代
地方(北海道小樽市)出身の私が早稲田で抱いた第一印象は「人が多い」でした。
これは入学試験時に始まります。土地勘の無い高田馬場駅に降り立ち途方に暮れるかと思いきや夥しい学生が動き出しその流れに沿って進むといつの間にか西門入口に到達していたとの体験が驚きでした。 特にお昼休みの時間帯は教室から出されましたから満員電車さながらのキャンパス内で食事をする場所が無く気づけば大隈会館脇のベンチで弁当を広げる羽目に陥ったことを鮮明に思い出します。 入学したのは1963年春です。その後、名づけられた「団塊の世代」の先駆けでした。
当初の戸惑いが消えると地方では味わえない解放感を抱き学生生活を満喫出来ました。地方では「○○の次男が云々」と謂われた抑制からの解放でした。
団塊の世代からの数による圧迫感は学生時代も卒業後の各時代時代にも通奏低音のように意識させられました。
新入学の春はサークルの勧誘合戦に翻弄されますが選んだサークルは「商業・英語研究会」通称BEAでした。単なる英会話サークルでなくマーケティングや貿易英語を学びたいと願っての入会でしたがここも人が多く部室には入りきれず学生会館の中二階がたまり場でした。当時は個人で所有する事が困難だったタイプライターがサークルには数台ありましたが練習希望者が多く結局マスターしたと言えませんでした。私はサークル員の遊びの面倒をみる企画Ⅱグループに専念する役回りで終始しました。春と秋にかけては山歩きそして冬はスキーに入れ込んでいました。
入学して感じたもう一つは60年安保改定反対運動後の虚脱感でした。目的意識を失くした学生及教職員の政治運動に対する無力感が漂っていたように感じます。 しかしその様な虚無感を払拭したのが学費値上げ反対闘争でした。
値上げは新入学生から適用されるにも関わらず在学生が過激に反対した理由は値上げにより早稲田らしさが失われるとの危機感でした。その危惧は部分的に
共感出来ましたが大学封鎖に訴えるその行動には正直ついて行けませんでした。学内に機動隊が導入されて封鎖が排除された時は後輩のサークル員を連れて志賀高原でのスキー合宿の最中でした。夜のTVニュースに映し出される映像を凝視した経験はほろ苦い思い出です。
私の学生時代は勉強も遊びも中途半端なままに過ごしたモラトリアムな時代でした。 しかし今はこの時を経て実社会に出て行くことが出来たことを幸いだったと思います。