第8回:五十子 繁さん
私の稲門時代
学生番号:4009010
〜入学〜
中学生の時、どういうわけか田端義夫・美空ひばりのレコード盤に混じってタンゴのLP盤が有りました。タンゴといえばコンチネンタルとアルゼンチン。ふとアルゼンチンはどんな所かなと思い世界地図を眺めると、南米に位置し、ラ・プラタ川という大河が目に入りました。この河にダムを造ってみたいと突然閃いたのが「土木」関係に進むきっかけでした。また、当時流行ったジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」の世界にあこがれていた事もありました。
高校に入学後間もなく担任の先生に「志望大学を3校書きなさい」と言われ、第一志望京都大学・第二志望東京工業大学・第三志望早稲田大学と書き提出。京都大学は遠いから無理、東京工業大学は担任から一浪しなければダメと言われ早稲田大学へ。数学・化学・物理・英語(受験用)は自信有りましたが、国語と社会関係のジャンルは私の頭脳には不適であり、国立大学入試には向いていなかったのでした。
従って早稲田大学理工学部土木工学科に入学となりました。
〜学業〜
1・2年は主に一般教養である選択科目と語学(英語・ドイツ語)、理科系らしき科目は図学・化学実験・材料実験・物理学・数学等。一科目の授業時間が90分と高校時の倍もあり、興味のない授業はひと眠りし、それでも時間を持て余していました。初めて授業に出なかった時はやましい気持ちが有りましたが、そのうち皆でやればの如くあまり感じなくなり、2時限まで授業に出ていると雀荘が満員、早めに退出して席を確保するようになりました。3・4年では土質工学・応用力学・測量実習・橋梁工学・道路工学・コンクリート工学・水理学・都市計画・・・・必修科目が主体になり、いくらか勉強したような思いがあります。
卒業論文は「嫌気性汚泥消化」がテーマ。芝浦下水処理場・落合下水処理場へ汚泥を取りに行き、実験材料に利用しましたが、なかなかの臭いで大変。生物化学的酸素要求量(BOD)の時間経過による数値変化を調べたのではないか・・・多分。当時、毎日試験管を百本以上洗っていました。最後に英文(独文?)の関連書類を訳して無事終了。ちなみにBODがほぼゼロは当時の隅田川の水質で、悪臭を放ち細菌も住めない最悪の状態。
〜羽球〜
バドミントンは中学1年時に数学の先生に勧められスタートしましたが、この時代はバドミントンのスポーツとしての扱いはマイナーのマイナーで、今と全く違う環境でした。みなさんの感覚では羽根つきの毛の生えたようなもの。「バトミントン」の表記が全て「バドミントン」になったのは平成になってからかな。ともあれ、入学してバドミントン部が存在することを知り、文学部の入り口を入ると記念会堂の手前で新入部員の勧誘をしていました。即入部の手続きをし、晴れてバドミントン部員となりました。その後分かったのですが、私のように入部したものは一般部員と呼ばれ、レギュラー部員と別扱いをされていました。一般とは一般入試で入学した部員のこと。今思うと複雑な感じがあり、現況では一般部員はほとんど在籍していません。(同好会が20程有るそうです)技術的には彼らに勝てませんでしたが、麻雀では勝ちました。合宿で新潟・仙台・弘前他行きましたが、夏の締め切った体育館での練習は、水を飲ませてもらえず、汗も出なくなり、レモンの味も感じず、それでも熱中症にもならず。おかげさまで相当な体力が付きました。厳しい練習を共にし、同じ釜の飯を食べた同期の良い友が今でも財産として残っています。
バドミントンの授業で先生の助手をしていた時に記念会堂(文学部)の学食で吉永小百合嬢を3回見かけたのも良い思い出です。目が合った時にはドキッとしました。ラーメンが出来るのを待って並んでいた時に隣にいたのでビックリした事もありました。
〜卒業〜
1年期末テストの時、理工学部がロックアウトされ、朝から晩まで毎日麻雀をし、その結果盲牌がほぼ出来るようになり、腕も上達しました。このことが今役に立つとは。いい加減な学生生活でしたが、成績は良いほうでした。4年間の行動を改めて考えると学業・バドミントン・麻雀の比率は35:35:30程度。
〜参考〜
受験票・入学試験の科目別点数
※ 合格点の目安は180点満点の90点(学科によって若干の差)