第10回:菊地 正矩さん
私の稲門時代
昭和四十四年商学部入学
昭和二十四年生まれ、戦後ベビーブームの最後の年です。私の卒業した仙台市立上杉山中学校は入学当時、1学年二十一クラス、全校で六十三クラス、三千人超の当時日本一のマンモス校でした。当然、体育館は勿論のことありとあらゆる施設は区切って教室に、それでも足りずに小学校の教室を間借りしていました。秋には分校が出来て過密状況は改善しましたが、小学校に通っていた仲間は可哀想でした。
そんな中、受験戦争にもまれ翻弄されて、やっとのことで昭和四十四年、早稲田大学商学部に入学することが出来ました。入学手続きに大学に行った帰り、学生と思しき方々に突然、麻雀に誘われました。どういった意図があったものか、単純にメンツが足りなかったのかは分かりませんが、丁寧にお断りしながら、これからの大学生活に大いなる不安を抱えることになり、「このままでは拙い、何かクラブ活動でもしなければ遊びの生活に入ってしまいそう」との思いからクラブを探すことになりました。
親父が学生時代に山をやっており、県庁では治山課に勤務し、山歩きは得意だったようで、県庁職員のハイキングではリーダーを務め、私も蔵王山に同行したこともありました。そこで「山岳部に入りたい」と親父に相談したところ、「駄目だ」の一言で拒否されました。早稲田大学山岳部の遭難事故の記憶が親父に頭には残っていたのですね。仕方なく「それじゃー、ワンゲルは駄目かな?」とお伺いを立てたところ、即オーケーが出ました。勿論テストもなく、即入部です。と言っても、他の部は知りませんが、ワンダーフォーゲル部では「1年部員」ではなく、「新人部員」なんです。正式に1年部員になるのは冬合宿が終わってから妙高の山小屋で行われる「部員昇格式」の儀式が終わってからです。これは酒の飲めない人には辛い、先ず名前を呼び上げられ主将の前に行くと丸食(給食で使ったアルマイトのカップ)に日本酒をなみなみと注がれます(四合入ります)。これを飲まないと昇格の証の部の「バッジ」が貰えないのです。私や吞兵衛仲間は二杯です。席に戻ると他の先輩からまた注がれて飲むと既に1升二合です。同期の女性部員は丸食半分を飲んで、席に戻りそのまま、ドーンと倒れました。今はもうこんなことはやっていないでしょう。
そんなことで年間百日以上の山行、日曜を除いた日は毎日トレーニングというワンゲル生活がスタートしました。1年の時は正直言って辛かったですね。定期的なアルバイトに就くことが出来ず、日通のアルバイトが主でしたが、金は山の装備を購入する方に回り、下手をすると1日1食でした。ですから山に行くと太って帰ってくるのです。朝から晩まで運動して1日三~四食でおやつも付くのですから天国です。それと私は食べるのが早く、おかわりを優先的に食べられたことも太った原因でもあります。多分、四年間殆ど負けませんでしたね。寂しい自慢です。街中にいる時に腹が減ると東京在住の友人宅に行ってご馳走になったことが多々ありました。「カレーライスを腹いっぱい食べたい」と言ってお世話になっていましたが、皆さんには本当にお世話になりました。四年間ほとんどが学生服姿で通しましたが、当然のこと早稲田大学生とわかりますので、飲み屋で知らない先輩方に奢って貰ったり、知らないお姉さまにご馳走して戴くこともままありました。当時付き合っていた彼女も山関係の人でしたし、同期や先輩には「お前は早稲田大学商学部を卒業したのではなく、早稲田大学ワンダーフォーゲル部卒、だよなあ」と良く言われたものでした。
就職も様々なことがありましたが、最終的には空調関連の事業で独立することを前提に空調工事部門を持っているビル管理会社に技術習得まで、と自分では割り切って就職しましたが、そこの二代目(慶應でしたが)と馬が合い過ぎて、結果その会社が二回の株式売却を経て、社名変更を二回行いながらも生き延びることに同行してしまいました。
山を歩いていて辛い時、いつも思うのは「この道はいつか終わる。今日の夕方には着いている。」そして、?咤激励して頂いた故神澤惣一郎部長・先生の「野生と知性」の教えです。そのお陰で今まで何とか人間として生きてこられたかなぁ。