第9回:植田 政明さん
私の稲門時代
昭和42年(1967年)4月に理工学部土木工学科に入学。初めて定期券を持って通学しました。何しろ、小学校から高校までは全て徒歩通学だったので、定期券を持っての通学が最初は新鮮で嬉しかったが、ラッシュに当たると凄まじい混み方だったので、やがて、1時間目の授業を回避し、フレックスタイムで通学するようになった。
私が入った時期は、理工学部が今のキャンパスへ移行する最終盤の時期に当たっていて、当時の超高層ビル、18階建ての50号館も、周辺の校舎も真新しかった。
授業はほとんど理工キャンパスで受けていたので本部や文学部のキャンパスに行く機会は少なかったけれど、体育の授業をバスケットボールと水泳にしたので、記念会堂や文学部の坂の脇にあった屋内プールに行く機会はほぼ毎週あった。男ばかりの理工キャンパスから女性の多い文学部キャンパスに行くのは楽しかったな。特に、吉永小百合さんと会えないかなと思いながらウロウロしていたら、一度だけ遠目に見たことがあった。そう言えば、伝説の織田幹雄さんから体育の講義を受けたこともあったな。
授業には適度に出て、好きな授業では友達の代返をしてやったり、嫌いな授業はサボって代返してもらったり。時間が空くとパチンコして、稼いだ玉は煙草に換えて雀荘に売って小遣いの足しにしたり、当時流行っていたビリヤードで遊んだり。当時は専ら四つ玉だったな。
そのうち、いわゆる大学紛争で学内がゴタゴタしてきて、理工学部にも立看板がやたらと立ち、授業もあったり、なかったり。授業がなければ“悪い”友達の下宿に潜り込んで麻雀したり安酒を飲んだり。ただ、試験の前だけは“良い”友達の下宿で特訓したので成績はそこそこ良かった。
あの頃は、世の中が騒然としていて、通学途中の新宿駅では、騒乱があったり、西口広場のフォークゲリラに人が大勢集まったりとか何故か妙に熱気があった。そう言えば、べ平連なんてのもあったし、三島事件もこの頃だったな。
何だか何となく4年間が過ぎてしまった感じです。
当時の懐かしい姿を見つけようと、写真をあちこち探したら、肝心の写真は見つからず、思いがけず卒業論文と卒業証書が出てきた。卒論はいつもつるんで遊んでいた田沼君と一緒に書いたもので、表題は「平面骨組構造および平板構造の弾塑性解析」。地下の研究室でインスタントラーメンをすすりながら書いたものだと思うけど、50年ぶりに中身を見てもさっぱりわかりません。まあ、何とか期限までに書き上げて無事卒業証書をもらえたということになります。卒業証書を見ると、当時の総長は村井資長先生でした。
半世紀の歳月を感じました。