第16回:田中 民男さん
私の稲門時代
1972年夏
サークル活動の一環として夏休みに青森県の六ケ所村に取材旅行に行く。大学一年のときだった。六ケ所村の原発開発をテーマにしたドキュメンタリー制作のためだった。資金がないので八ミリ映画だ。一年上の先輩と同学年の仲間数人とで先輩の運転するカローラに同乗して東京から青森を目指す。エアコンがついていない車のなかは猛烈な暑さだった。泊漁港の海岸にテントをはり野宿した。
夜になるとイカ釣り船の明かりが水平線に連なりとても美しかった。
1972年秋
相変らず講義はさぼり雀荘に出掛けた。大橋巨泉も通ったという雀荘「文明堂」が当時のわれわれの戦場だ。サークルの部室で顔を合わせると「カステラ食いに行こう」というのが「文明堂」行きの合言葉だった。
このときのメンバーはすべて同学年の気の置けない男どもだった。昼過ぎから始めた麻雀が翌日の午後まで続いた。徹マンどころか27時間に及んだ。
雀荘を出て回りを見ると黄色く見えた。
1973年春
テレビ局で半年間アルバイトをした。ゴールデンタイムの歌番組の制作に関わったが、コピー取りや資料集めなど雑用の仕事だった。
毎週、早稲田のアバコスタジオで収録があった。このときはスタッフの飯は三朝庵の出前を頼んだ。音楽を担当していたKHさんはいつもてんぷら蕎麦に海老ひとつ追加というメニューだった。収録が終わると演奏者の楽譜を集めてまとめていたが、この楽譜の枚数によって彼らのギャラが決められることはあとで知った。
1974年春
サークル運営の中心を担う大学三年になり幹事長に就任した。同期の仲間が役割を分担した。運営方針や活動目標などたくさんの文章を書いた。あとで読むと気恥ずかしくなるようなこの頃の学生特有の文章だ。
夏休みには合宿があり、地方に帰省しているサークル部員の自宅に実施案内の郵送物を出した。封筒の表には、赤字で「ポルノ在中」とかいたずら書きをしたり、中にタバコの吸い殻を入れたり、随分酷いことをして楽しんだ。
1977年冬
大学五年生。二年がかりで就職活動をしてようやく前年の年末に就職先が決まった。五年になってからはアルバイトに精を出していたので講義にはほとんど出席していない。
卒業するには数単位が必要だったので卒業できるかどうかとても心配になる。卒業できないと入社もできない。
万が一のときは、教授に土下座すると単位をくれるという噂があり覚悟した。どうにか土下座せずに済んだが卒業式には参加せず卒業証書はあとで事務室に取りに行った。