第15回:齋藤 友一さん
私の稲門時代
「私の早稲田」
早いもので早稲田を卒業して半世紀が経とうとしている。私が卒業した昭和50年はオイルショックの後で、物価も上がったが、サラリーマンの初任給も10万円の壁を破った年であったように記憶する。入学した46年はどんな世相であったのであろうか。
70年安保の余波もあって学生運動が盛んであった。私が入学した文学部は皆さんもご存知のように革マル派の拠点であり、中核派との闘争が繰り返され、同学年のI君が殺された。もちろん入学したばかりの我々にとっては大事件であり、とんでもない所に来てしまったと、私ならずとも同期の皆も思ったはずだ。多少は大学生活に夢を抱いて入学した新入生にとっては衝撃的な事件であった。
授業もストライキで中止にされることも多く、自然と足が雀荘に向かうようになり、学生生活への期待もしぼんでいったように思う。徹マンをし、意識もうろう、タバコの臭いをプンプンさせながらバイト先へ直行することが増えていった。
昭和46年は札幌冬季オリンピックの前年で明るい話題にあふれていたが、学生運動のセクト争いや内ゲバ闘争はその激しさを増し、赤軍派の「死の彷徨」は世間を恐怖の底へ導き、学生運動を越えた領域へと突入するに至り、後の「浅間山荘」事件、「よど号ハイジャック」へと繋がっていったのである。
そんな世相の中にあっても、神宮球場での早慶戦応援や、クラスの仲間たちとのキャンプ、スキー等、当時の学生が楽しんだことは一通りやったと思う。
ただ一つの心残りは、私は第二文学部の学生で、自活していたので昼間部の学生たちのように、太陽の下で部活に汗を流すことができなかったことである。
医学部進学の夢を捨てきれずに二浪もしていたし、親に経済的負担もそれ以上かけられなかったこともあって、自活の道を選んだ。予感した訳ではないが大学二年時に父親が突然他界した。青春を戦争で過ごした世代であった。
二部の学生なりの楽しみも沢山あった。すでに社会人として立派に経済活動を実践していた仲間たちからは得るものも多かった。授業の後、夜空の下、敢えて地下鉄に乗らずに、高田馬場まで歩いた。それものんびりと。1分でも長く時間をかけて。ほんのわずかな時間が貴重な青春の一コマであって、甘酸っぱいような、時にはほろ苦いような、懐かしい想い出である。
多少気になっていた女子もいるにはいたが、二、三度デートする程度で卒業した。
至極普通の学生生活ではあったが、大学生という4年間は私にとっては何物にも代え難い貴重な時間であった。人生には所々に岐路があり、そのどちらの道を選ぶか、その後の人生が決まるのであって、あの時違う選択をしていたらどんな人生であったろうか、と思うことも多いのではないだろうか。幸福感というものは私的なものであって、他人と比べようもないが、私は今幸せである。
早稲田に入り、4年間学んで、今に繋がっているのはまぎれもない事実であり私の人生そのものである。今こうして志木稲門会の諸先輩方とおつき合いいただけるのも早稲田の門をくぐった縁である。感謝感謝である。
一時も早くコロナが終息し、この圧迫感が取り払われ、明るく活気あふれる社会が復活することを祈ってペンを置くことにする。
拙い文章で、自分の思うところが十分に伝わらなかった感、大ですが、稲門の誼でどうか許していただきたい。