第19回:小西 侯久さん
私の稲門時代
1969年 一文
神宮球場が熱狂した1960年秋の早慶6連戦を白黒テレビで見た中学生の私は、“早稲田に行く!”と決めました。田舎者には慶応の都会風なスマートっぽさは性に合わず、それに比べて野暮ったい早稲田なら気兼ねなく学生時代を謳歌できそうな気がしました。受験は早稲田一本。学生服に座布団帽をかぶり、足駄をはいて「都の西北」を歌いながら高田馬場とやらいう街を闊歩する夢を膨らませていました。
テレビの仕事をしたい一心で、一文の演劇科を受験しました。当時は専攻別に分けて募集したのですが、吉永小百合も演劇科を受験することを知り、“もしかして同級生に?”と、自分のことよりライバルの結果が気になっていました。入学後、合格者の最下位が私で不合格者の最上位が彼女だったという未確認情報に踊らされながら、以後今日に至るまで、彼女にはただならぬ親近感を一方的に持ち続けています。
閑話休題。東京での生活の場は当時の安部球場に近い三畳一間の小さな下宿。窓の下に神田川は流れていませんでしたが、2食付きで家賃は月10,500円。大学まで5分、雀荘まで3分という好立地。親の目の届かない花の都で、いよいよあこがれの早大生としての生活が始まりました。
が、好事魔多し。入学のこの年、学生会館の管理や学費値上げ問題に端を発した早大闘争が火を噴き、翌年の年明け早々から5カ月にわたる大学封鎖に至ります。
青雲の志を抱き、青函連絡船を夜行列車に乗り継いで上京した向学心あふれる純朴な若者の夢は無残にも砕かれて、以後は校外活動に熱中することになり、バイト、麻雀、酒etc.に忙しい日々を送ることになりました。
マクラの長い噺のようになりましたが、無頼のような4年間を思い出すに、「勉強」「ゼミ」「サークル」などに励んだ記憶がありません。私の稲門時代は、実は『逃門時代』だったのです。
様々な努力?の甲斐あって卒業の見込みは立ちましたが、当時、文学部卒は門前払いの業種も多々あり、中には「全学部、全学科応募可。ただし文学部演劇科と美術科は除く」という慧眼を持った企業もありました。それでも何とか望んだ仕事に就くことができ、今もまだ業界の片隅を這いずっています。
在学中は大学を留守にすることの多かった私ですが、それゆえ卒業から半世紀余を経た今も母校への愛着は一入です。今後も私学の雄としての矜持を保ちながら、ワセダ伝統の“バンカラ”の気風もまた永遠に受け継がれていくことを願っています。
今でも英語の出席日数が不足で留年の危機に立たされている夢で目が覚め、ドキドキが止まりません。加齢による単なる不整脈の症状なのですが。