第20回:田村 慶則さん
私の稲門時代
私が早稲田大学第一文学部に入学したのは東京大学と東京教育大学の入試が中止となり、物情騒然としていた1969年4月のことだった。
翌70年が日米安全保障条約の改定期にあたることで学生の政治的関心も高く、一学年の各クラスも5月に入ると次々にクラス・ストライキに突入していった。そのスローガンは、「大学立法」粉砕・沖縄解放闘争勝利といったものだった。私の所属する1Bは他クラスと比較するとクラス内での議論に盛りあがりを欠いていたが、5月19日の一文学生大会で「無期限ストライキ」が議決されたあと、クラス構成員66名の過半数の参加したクラス総会でストライキ突入を宣言することになった。この1Bのクラス・ストは、翌1970年の1月まで続く。
その時点でクラス・ストを継続していたのは、一文では日本史専修クラスと1Bの2クラスだけになっていた。70年の1月中旬、クラス総会でストライキ解除を決定。1月下旬の一文学生大会でもストライキは解除され、第二次早大闘争は終了することになる。
クラス・スト中の私の日常生活の中心は、早稲田界隈の古書店めぐりと特定作家の文庫本の乱読というものだった。井上靖、横溝正史、陳舜臣、ディクスン・カーなどを書店で購入しては読み耽っていた。1970年の春頃から、毎週、土曜日には神保町の古書店街を探訪するようになった。歴史関係の書籍を購入する目的で、一誠堂、南海堂、玉英堂、小宮山など七~八軒の書店を訪れる。時折、九段北方面に店舗のあった長澤書店で早稲田大学史学会発行の「史観」等を購入するというのが、定例化した行動パターンになっていた。
ところで、当時、歴史研究者の注目を集めていた岩波講座「世界の歴史」(全30巻)の第一回配本は、1969年5月頃だったと記憶している。入学前には卒論のテーマを「ロシア革命下の非ボルシェビキ的民主革命派の人々」としようかとも考えていたのだが、岩波版「世界の歴史」第1巻・古代1.所収の「古代オリエントにおける灌漑文明の成立」と「シュメールの国家と社会」を読了後、考えが変わった。『ユーラシア大陸における人類文化の起源の探求』、このテーマこそ私の卒論にふさわしいと直感したのである。この二論文の執筆者は、前者が早稲田大学文学部の川村喜一助教授、後者が京都大学人文科学研究所の前川和也助手だった。以後、大学院在籍時代まで、先述したような知的回遊路としての神保町界隈の特定書店めぐりが継続することになる。
当時、Bクラスを中心とする我々のグループは、数名の女子学生、他クラス・他学部の学生を含めて十名程度だったと思う。時折、新宿三丁目要通りの「どん底」(店名はロシアの文豪ゴーリキーの作品名に由来。)や文学部近くにあった喫茶店「ジャルダン」などで会合を開いては、長時間に亘る議論を重ねるのが日常的光景だった。
その頃の我々のグループの間では、他者の議論を受け止めた上で、静かに自らの考えを述べるというのが暗黙のルールだった。昨今、よく耳にする「傾聴」という言葉の内実を、我々の世代なりに具現化していたのだと思う。彼らとの交流をバネにしつつ、私の卒論執筆構想は煮詰まってくる。早大文学部教授の中島健一先生の「古オリエント文明の発展と衰退」からは、古代オリエント社会を分析する重要なヒントを頂いた。
しかし、1960年代から植物遺存体と考古学との学際的研究を続けていたデンマークのH・ヘルベック教授の考え方を日本に導入できれば研究者として自立することが可能なのではないか、という当時の私の思索方法論は、複雑な人間関係の中で形成される一種の派閥主義の横行していた早大史学界の中では排除の対象に過ぎなかったのであろう。
川村先生・中島先生・学友などの期待に答えられなかった自身の無力さを自覚せざるを得ない昨今です。
*文中に登場する先生の肩書は当時のものです