第14回:本多 昭雄
私の稲門時代
昭和32年に第一法学部を卒業しました。入学受験問題も回答も英文だったことに驚いたことを思い出します。授業料も確か二万円の頃かと思います。奨学金を授与され卒業しました。何年か前,大隈候生誕120年記念募金に応募して、大隈講堂内の名盤に記載されています。
入学した昭和28年の頃は地方から来た人は、大体三畳一間の部屋を借りていたようです.私は池上線のナガハラの親の家から通っていたので、感じませんでしたが、世の中不景気で、地方の人はその地方の名家出身者で、卒業後は早大卒の肩書でその出身地で責任のある地位について活躍された人ばかりでした。今でも年賀状のやり取りをしており、年に何回かは会っていました。残念ながら新型コロナのため途絶えています。
高田馬場駅のあたりも今とは大分違っていて早大正門行きのバスは駅の反対側から出ていました。駅前のロータリーは無く、駅の反対側も変わってしまっています。
大学の周りに目を転じると、西早稲田バス停から都電荒川線早稲田駅に降りていく途中に安倍野球場があり、教養科目で体育の野球を選択して、当時の森監督に一時間この野球場で試合形式の授業を受けた記憶があります。球場は昭和62年に閉鎖され、東伏見に移りました。跡地は中央図書館、国際会議場などが入っています。新目白通りのバス停にグランド坂下の名前が残っています。
講談、芝居、映画等で知られている、中山(後の堀部)安兵衛の高田の馬場の決闘が江戸時代にあり西早稲田三丁目の裏通りに場所を示す石碑が立っていました。今では甘泉園公園隣りの水稲荷神社参道に堀部安兵衛の石碑が立っています。
私が通っていた昭和30年ころは、まだ副都心線は無く、大学から山手線東大久保駅の間は戦前の戸山が原練兵場の跡地で道らしきものはありましたが、身の丈を超す雑草で覆われていました。一度一人で歩いたことがありました。途中に箱根山と云う山があります。江戸時代、尾張徳川家の下屋敷の庭園の一部で、標高は44.6mあり、山手線内の最高峰です。最後に新大久保駅と高田馬場駅の中間ぐらいに出て、高田馬場駅に着きました。箱根山は都立戸山公園内にあり散歩道の一部になっています。
今では副都心線西早稲田駅もでき、早大理工学部もあり、高層住宅街となり、学習院女子短大もでき、すっかり変わってしまいました。戦前の教育を受け、敗戦、進駐軍、学生運動等長く生きてきて、変わらない昔の物、場所等に会うとほっとすることがあります。大学周りには特に多く残っているように思います。
つたない文章をつづってしまいました。
読んでいただければ幸甚に存じます。