第38回 定井賢一郎さん
私の稲門時代
1986年商学部卒 定井賢一郎
広島で生まれ育った私は、東京へのあこがれがあり大学は東京に行きたいと考えていました。大学の下見と称して高校2年の夏に東京に来て、ファンだったキャンディズのスーちゃんの実家の釣具屋に行ったのはいい思い出です。
一浪をして早稲田の商学部に合格。もともと国立志望で、当時は共通1次試験が始まった時で、5教科7科目を勉強していましたが、社会が苦手で国立の2次試験と私立大学はすべて数学で受験、運よく早稲田の商学部に入ることができました。
合格発表のあと一度広島に帰って、入学申し込みの最終日に合わせて上京、第2外国語とアパートを決めて再度広島に帰り、その後入学式に合わせて上京、と入学直前はドタバタでした。
第2外国語は中国語が簡単だという噂を耳にしたため、中国語に決めて登録に行きましたが、なんと定員が一杯で中国語の選択ができませんでした。そんなバカなことがあるのか、と我が耳を疑いましたが、純粋無垢な田舎者の私は受け入れるしかなく、まだ枠の残っていたスペイン語を選択しました。
また、アパートを決めるのに土地勘の全くない私は、早稲田まで一本で行けるという理由と値段(風呂なしトイレ共有、月23,000円)で阿佐ヶ谷駅から徒歩20分以上かかるレトロな名前の山田荘に決めました。入学後に分かったのですが、多くの友達は西武線沿線に住み高田馬場から歩いて早稲田に通っていました。私は確かに一本で行けるのですが、JRと東西線を使うため定期代が西武線組よりも非常に高く、どうしたもんかいな、と思いましたが結局4年間阿佐ヶ谷にいました。
入学式で正式に上京、クラス分けの発表を見て、“や”組となりましたが、当時でさえ今の時代に“や”組?なんで?広島出身の私はやくざの“や”組か?と意味の分からないことを考えていました。“いろはにほへと”を使っていると聞きましたが、まだ継続しているのでしょうか?
仁義なき戦いで知られている広島弁を母国語としていた私は、入学後に広島弁がかなり特殊だということを身に染みて体験することになりました。まず子供のころから自分のことは“わし”。“俺”と初めて言ったとき、なんとなくくすぐったいような、変な感じでした。また、試験のあとに今日の試験は“みやすかった“というと友人に怪訝な顔をされました。広島弁では”みやすい“は簡単という意味ですが、友人はカンニングしやすいと聞こえたようです。とはいえ、数か月も経つと一端の東京弁を使いこなしていました!
サークルは、早大企画サークル“とも~る”に入りました。早稲田祭を中心にイベントを行うサークルで、ミス早稲田コンテストとコンサートを1つのイベントとして行っていました。入場料を取り、歌手を呼び、コンサート機材なども使ってイベントを行っていました。赤字だと自己負担になるので真剣に利益を出すように運営しており、2年生以降はマンションの一室を借りて事務所にするくらい利益が出ていました。
コンサートは1年生の時は石川ひとみと三田寛子、2年の時は早見優、3年の時は森尾由美を呼びました。特に1年の時は、石川ひとみのコンサートがキャンパスライブと銘打ってレコードになり、コンサートや当日の模様がレコードの写真に使われ、非常にいい思い出になりました。



大学時代はサークルに没頭しており、イベントの企画、パンフレットの広告取り、コンサート歌手の選定、等々名刺を持って社会人のような日々を送っていました。それもあってか、自分の結婚式にゼミの先生にスピーチをお願いした際、スピーチの中で、“サークル活動の合間にゼミの勉強をしていた”、と言われ、出席者も大爆笑で恥ずかしい思いをしたのもいい思い出です。
就職は海外、特にアメリカで仕事をしたいと思い商社に行きたかったのですが、希望の商社に就職することはできず、代わりにアメリカでしか輸出事業を行っていなかったサッポロビールに入社しました。念願がかない、結果的にサッポロビールで23年の駐在生活(17年がアメリカ)と自分の希望に沿う社会人生活を送りました。
妻は志木で生まれ育ちました。まだ持ち家を持っていなかった2011年、カナダ駐在からの帰国時に社宅では子供3人入りきれないこともあり、家を購入すべく東上線沿線を探しました。運よく適当な家が志木に見つかったのでその時から志木に住んでいます。とはいえ、2014年から2024年まで海外に単身赴任でいたので、私自身はようやく昨年から落ち着いて志木に住んでいるという状況です。
何はともあれ、早稲田で大学時代を送ったことがその後の自分の人生に大きな影響を与えており、現在志木に住んで稲門の皆さんと親交を深めることができるのも早稲田ならではだと思っています。
今後もこのご縁を大切にしていきますので、よろしくお願いします!