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【早稲田への道】
子供の頃、私は早稲田が嫌いでした。今も志木稲門会のウェイト7割は志木で3割が早稲田の気持ちです。でも今、思うと早稲田入学は予定調和だった気もします。

上石神井の高等学院から持ち上がりで大学に入りましたが、手続き上は学部の変更といった扱いで、高校のときから大学とほぼ同様の入学金と授業料を大学に支払っていました。

1960年(昭和35年)広島県竹原市に生まれた私は、父の仕事の関係で小学校の5年から高校卒業まで山口県下関市で育ちました。高校時代まったく勉強に身が入らず大学受験した私は当然のように受験したすべての大学に不合格となりました。

私は埼玉県の公立男子校卒業後、1500名中約30名しか女学生のいない理工学部に入学したので、男の園での青春を送ることに不安を感じ、サークルは本学と決め「野草を食べる会・なべの会」に入りました。

私の稲門時代と言われても、サークルに入っていたわけでもなく、かといって何かに一つのことに熱心にやったと言ったこともないため、記憶も朧ではありますがそんな中思い起こしてみますと。